美しき街、シリア。
かつてはそんな文句が中東のガイドブックを賑わせていたのでしょうか。
この9月にヨルダンへ渡航する前、戦争前のシリアを収めた写真の展覧会や講演を訪ねました。夜景に輝く街、花々に囲まれた田舎の田園風景、噴水をそなえた中庭のある西洋建築の家。今、そんなシリアを誰が想像できるでしょうか。
思えば僕の思うシリアはいつも戦争をしていました。おそらく初めて中東、アラブの世界に興味を抱いたのは中学校3年くらいで、ちょうどシリアの内戦が始まった年でした。正直シリアに戦争をしていない時代があったかも疑うほどで、シリアといえばニュースで見た「戦争」「難民」といったイメージばかりが頭に浮かんでいました。国中どこを見渡しても砲撃と爆弾が絶えない国。そんなイメージを変えたのが美しいシリアを収めた写真たちとの出会いでした。
ヨルダンでは現地でシリア難民支援活動を行うNPOの方々の支援のもと、たくさんのシリア人と交流する機会を持ちました。アラビア語もろくに話せない僕でしたが、彼らはヤバーン(日本)から来た僕にいつも笑顔で握手をくれました。必死のジェスチャーとアラビア語でシリアの様子を僕に訴えかけてくることもありました。伝わるはずのない言語を話すもの同士なのに、話し手は必死に語りかけ、聞き手は必死に話を受け取ろうと努めました。彼らの様子にそれだけ彼らの故郷が切迫した悲惨な状況であることを感じるとともに、彼らの情熱が自分に通じたことにどこか心地よさも感じました。共同生活をしたシリア人とはアラビア語と日本語を教えあったり、ゲームやサッカーで遊んだり、特別なことはほとんど何もしませんでしたが、日常をともにしました。もちろんヨルダンでの生活は彼らにとっての本当の日常ではありません。ただ、何気ない生活の一部分を彼らと共有できたことは、テレビやスマホのニュースの向こうにいたシリア人をはるかに僕に近い存在にしてくれました。
「もっと彼らの見ていたシリアを見たい。」日本での写真展以来、抱いていた感情を原動力に僕はGoogleの翻訳機能を使って必死に彼らのスマホの画像を見せてもらおうとしました。しかし「スマホはシリアに置いてきてしまったよ」「もうスマホは変えてしまったんだ」と、彼らの多くも、もはやシリアの写真を持っていませんでした。戦争が始まって5年。言われてみれば自分のスマホに5年前の写真があるかと言われれば、全くといってないでしょう。ただ、彼らの間にもはや共有されていないかつてのシリアの写真があることを感じました。彼らの記憶にはまだ当然残っているでしょう。でも子どもたちはどうでしょう。幼いときにヨルダンに逃げ出した子、ヨルダンで生まれた子、故郷の記憶がないままに成長していくであろう彼らに何とも言えない悲しさも覚えました。
僕がシリアの街を尋ねれば、話は次第に戦争の話にも変わりました。
「ここは俺の住んでいたダレイヤという街だ」
そう彼が話し始めていたときには、スマホの画面の中でダレイヤの街は爆弾で跡形もなく吹き飛ばされていました。政府に罪のない民間人が殺されていること、化学兵器を使っていること、政府に街を焼かれていること、あらゆる体験や伝え聞きを聴きながら、今日の日本で遭うはずのない非情な現実をすごく近くに感じました。ただかつてのシリア人もまた遭うはずがないと思っていたように、今の日本が戦争に向かう可能性もゼロではないと私たちは想像するべきなのかもしれません。
この渡航を通して、彼らのために何か自分にできることをしたいと、いつかのシリアの復興のために力になりたいと、心から思いました。
かつてのシリア人の幸せな生活が無事に戻ってくることを切に祈ります。
そしていつか、美しいシリアの街へ旅に出かけて、温かい人々と幸せなお家で、アラビックコーヒーとデーツが頂ける、そんな日が来ることを信じています。
【文責:8期 広田潤平】
(Souriyat Across Borders での夕食の様子)
(イスラームの犠牲祭の日の様子。ヨルダン人のボランティア活動で、犠牲祭の日のごちそうの羊肉をシリア人に配っている。)
(ヨルダン北部のマフラックからシリアへはそう遠くなかった。)
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シリア難民支援団体 サダーカ
Souriyat Across Borders