ヨルダンスタツアを終えて 8

美しき街、シリア。

かつてはそんな文句が中東のガイドブックを賑わせていたのでしょうか。

 

この9月にヨルダンへ渡航する前、戦争前のシリアを収めた写真の展覧会や講演を訪ねました。夜景に輝く街、花々に囲まれた田舎の田園風景、噴水をそなえた中庭のある西洋建築の家。今、そんなシリアを誰が想像できるでしょうか。

思えば僕の思うシリアはいつも戦争をしていました。おそらく初めて中東、アラブの世界に興味を抱いたのは中学校3年くらいで、ちょうどシリアの内戦が始まった年でした。正直シリアに戦争をしていない時代があったかも疑うほどで、シリアといえばニュースで見た「戦争」「難民」といったイメージばかりが頭に浮かんでいました。国中どこを見渡しても砲撃と爆弾が絶えない国。そんなイメージを変えたのが美しいシリアを収めた写真たちとの出会いでした。

 

ヨルダンでは現地でシリア難民支援活動を行うNPOの方々の支援のもと、たくさんのシリア人と交流する機会を持ちました。アラビア語もろくに話せない僕でしたが、彼らはヤバーン(日本)から来た僕にいつも笑顔で握手をくれました。必死のジェスチャーとアラビア語でシリアの様子を僕に訴えかけてくることもありました。伝わるはずのない言語を話すもの同士なのに、話し手は必死に語りかけ、聞き手は必死に話を受け取ろうと努めました。彼らの様子にそれだけ彼らの故郷が切迫した悲惨な状況であることを感じるとともに、彼らの情熱が自分に通じたことにどこか心地よさも感じました。共同生活をしたシリア人とはアラビア語と日本語を教えあったり、ゲームやサッカーで遊んだり、特別なことはほとんど何もしませんでしたが、日常をともにしました。もちろんヨルダンでの生活は彼らにとっての本当の日常ではありません。ただ、何気ない生活の一部分を彼らと共有できたことは、テレビやスマホのニュースの向こうにいたシリア人をはるかに僕に近い存在にしてくれました。

 

「もっと彼らの見ていたシリアを見たい。」日本での写真展以来、抱いていた感情を原動力に僕はGoogleの翻訳機能を使って必死に彼らのスマホの画像を見せてもらおうとしました。しかし「スマホはシリアに置いてきてしまったよ」「もうスマホは変えてしまったんだ」と、彼らの多くも、もはやシリアの写真を持っていませんでした。戦争が始まって5年。言われてみれば自分のスマホに5年前の写真があるかと言われれば、全くといってないでしょう。ただ、彼らの間にもはや共有されていないかつてのシリアの写真があることを感じました。彼らの記憶にはまだ当然残っているでしょう。でも子どもたちはどうでしょう。幼いときにヨルダンに逃げ出した子、ヨルダンで生まれた子、故郷の記憶がないままに成長していくであろう彼らに何とも言えない悲しさも覚えました。

僕がシリアの街を尋ねれば、話は次第に戦争の話にも変わりました。

「ここは俺の住んでいたダレイヤという街だ」

そう彼が話し始めていたときには、スマホの画面の中でダレイヤの街は爆弾で跡形もなく吹き飛ばされていました。政府に罪のない民間人が殺されていること、化学兵器を使っていること、政府に街を焼かれていること、あらゆる体験や伝え聞きを聴きながら、今日の日本で遭うはずのない非情な現実をすごく近くに感じました。ただかつてのシリア人もまた遭うはずがないと思っていたように、今の日本が戦争に向かう可能性もゼロではないと私たちは想像するべきなのかもしれません。

 

 

この渡航を通して、彼らのために何か自分にできることをしたいと、いつかのシリアの復興のために力になりたいと、心から思いました。

かつてのシリア人の幸せな生活が無事に戻ってくることを切に祈ります。

そしていつか、美しいシリアの街へ旅に出かけて、温かい人々と幸せなお家で、アラビックコーヒーとデーツが頂ける、そんな日が来ることを信じています。

【文責:8期 広田潤平】

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(Souriyat Across Borders での夕食の様子)

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(イスラームの犠牲祭の日の様子。ヨルダン人のボランティア活動で、犠牲祭の日のごちそうの羊肉をシリア人に配っている。)

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(ヨルダン北部のマフラックからシリアへはそう遠くなかった。)

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シリア難民支援団体 サダーカ

http://www.sadaqasyria.jp/

Souriyat Across Borders

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ヨルダンスタツアを終えて7

「ヨルダンにいるシリア難民の家」なんて、中東に初めて訪れた私にはもちろん想像できなかった。

 

ヨルダンに到着してから一週間ほどがすぎたころ、わたしはシリア難民の家庭にホームステイさせて頂くことになった。検討のつかない3泊4日に少し緊張している私を乗せた車は、アンマン市内の丘の頂上にあるアパートの前で止まった。案内に従ってアパートの一部屋に向かい、ノックをすると、ヒジャブを被って全身を隠している女性が扉をひらいた。私が「アッサラームアライクム」と挨拶すると、彼女は優しそうな笑顔で挨拶を返してきた。

 

家の間取りは2LDKで予想していたよりも広く、どの部屋にも窓があった。丘の頂上にあるその家の窓からはアンマンの街が一望できて、わたしはその家が気に入った。

その家にはお父さんとお母さんとムハンマドという17歳の一人息子が住んでいた。陽気で明るいお父さん、料理上手で温かいお母さん、シャイで優しいムハンマド。わたしはすぐに三人のことが大好きになった。

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(明け方、家の前からの景色。丘の頂上なので街が一望できる。)

 

 

 

私たちのステイの間に、イードというイスラム教のお正月のような儀礼祭が行われる日があった。羊の肉をメインにご馳走を作って食べるのが風習な日で、わたしはお父さんの料理を手伝っていた。野菜や羊の肉を切りながらおしゃべりしていると、彼はわたしに「私たちには一人息子しかいなかったけれど、いま、日本人の娘ができたように思っているよ」「君は私たちの娘だよ」と言ってにっこりと笑った。

 

 

ホームステイを終えてから、メディアの中の言葉でしかなかった「シリア難民」というフレーズを聞くと、彼らの顔が真っ先に浮かぶようになった。シリアに残っている親戚と電話をしながら泣いていた彼らの顔を思い出しては、私の「家族」である彼らが苦しい思いをせず、悲しい気持ちにならずに心から笑って過ごせる日が来てほしいと、祈るような気持ちになる。日本にいる私が彼らのためにできることを探したいと思った。

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(イードの夜のごちそう。全てお父さんとお母さんの手作りでとてもおいしい)

 

【文責:7期 壹岐惟子】

ヨルダンスタツアを終えて 6

一番印象深いホームステイ時のことについて、見聞きしたこと感じたことをまとめようと思います。

私がホームステイさせていただいたアブロヴィーヤさんの家庭には、お父さんお母さんに子供は男の子が3人いました。もとはシリアのホムスという町に住んでいたが、ホムスは内戦直後から被害が激しいところだったようで、お父さんは「ほかでもなく爆弾から子供たちを守るためにシリアから逃れようと決めた」と言っていました。

初日は青年海外協力隊のかすみさんと一緒にステイさせてもらえる予定だったので、通訳してもらえるうちにできる限りのことを聞こうと思っていました。家についてすぐにお母さんが屋上に案内してくれ、子供たち3人は逆立ちをみせてくれたり、サッカーしようと誘ってくれ、とても楽しく過ごしました。しばらくして、お父さんが帰ってきたと聞き、私はすこし緊張したのですが、お父さんは私たちに軽く挨拶したあとすぐに3人の息子と本気でプロレスごっこを始めたので驚きました。お父さんと3兄弟がはしゃいでいるのをお母さんがほほえましく見守っている様子がとても幸せそうで、その様子に安心したというか、「シリア難民の家庭」という先入観のせいで抱いていた、妙な不安が消えたのを覚えています。

その後、私はかすみさんを通してシリアのホムスのことを聞いてみようと思い、写真はあるかとお父さんに聞いてみたところ「見るとつらくなるから全部消してしまった。」と苦笑いしながら言われてしまいました。そして、お父さんの弟さんがまだシリアにいて、今日もお金を送ったのだ、という話を聞きました。

二日目は、家に親戚の供たちがたくさん来て7人くらいの子供たちとけん玉や折り紙や、ヘナタトゥーをして遊びました。印象的だったのは、女の子も男の子も私になんどもなんどもコーランの暗唱を見せてくれたこと。自分はここまで言えるんだ、とコーランを見せながら嬉しそうに教えてくれました。イスラム教が彼らにとって本当に生活の重要な一部であることを強く感じた瞬間でした。

かすみさんが帰ってからは、本当に言葉が通じなくなってしまいましたが、不思議と変な緊張はなくて、6畳ほどのリビングに家族みんなですわっているだけで、なんとなく暖かくて落ち着く感じがしました。その日の夜に、家の屋上に親戚らが15人くらい集まり、突然たくさんのビニール袋が運ばれてきました。そのなかには子供用の洋服やおもちゃや本、大人用のサンダルやバック、そして毛布などがたくさん入っていました。後々聞くと、それは、80年代のシリア政権の一部勢力に対する弾圧によってヨルダンに逃れてきた人々が、現在の内戦で逃れてきているシリア人を支援しており、ちょうどイードの時期にそういった中古品などを送ってくれるということだった。みんなで夜中まで服を体にあててはしゃいだりしていて、親戚同士のつながりのつよさを目の当たりにしました。

 

3日目は朝から羊の解体を見に行きましたが、運よく、帰りに一緒にTBSラジオで番組を持っている荻上チキさんが私のステイ先にインタビューをすることになり、田村さんと一緒にいらっしゃいました。荻上さんは非常に突き詰めた質問をしてくださり、私が聞きたかったことを目の前でお父さんの口から聞くことができました。

まずはシリアから逃れてきた時の話。およそ100人のグループで逃げてきたそうです。移動はほとんどが夜間。昼間だと目立つので、どこにいるかわからないスナイパーたちにいつ撃ち殺されてもおかしくないからだそう。しかし、夜には小さな子供たちが泣かないようにするのにも苦労したと言っていました。アブロヴィーヤさんたちのグループの一つ後ろのグループは、逃げている間に見つかり、全員で火あぶりにされてしまったそう。そんなぎりぎりの状況でなんとかヨルダンにのがれた後は、様々な家を転々としましたが、運よくうまい具合に保証人がみつかるなどして、今の住居に落ち着いたといいます。お父さんはけがで現在仕事はできず、ヨルダン政府から支給される支援で生活をしていました。田村さんが、「この家族がこれだけ支援をもらっていることに驚いている」、とおっしゃっていたので、この家族より貧しくても、もっと少ない支援しかもらえていない人々もいるのだとおもいます。支援の公平な分配の難しさを感じました。実際、お父さんもコネがないと支援はもらえないと言っていました。

シリアから逃れてきた時、三男はまだ生まれておらず二男はまだこの心がつく前、長男のハイーブくんだけが当時の状況を覚えていたようでした。ハイーブ君は、いよいよホムスの家を出なければならないという日に、自分の部屋の大切なものがとられないように、カギをかけていきました。そのあと、一時的に家の様子を伺いにもどったときには、もともと家のあったところは爆撃で更地になっており、ハイーブ君は自分の部屋のものがこれから先もとられないようにその更地に鍵を埋めてシリアを出てきたそうです。そのような経験をしたのが原因なのか、何年も経ったいまでも、家を出るときに鍵をかけたかどうか、過剰に気にするのだと、お父さんとお母さんが話してくれました。シリアで目の当たりにしてきたことがまだ7歳のハイーブ君の心に確かに大きな影響を与えているのだと思うと、なんとも辛くなりました。実際、萩上さんの取材がはじまったとき、次男と三男は、静かにしろと言われてすぐにすねて別の部屋にいったりおもちゃで遊んでいる中で、ハイーブくんだけはじっとお父さんのことを見て逃れてきた時の話を聞いていた姿が印象的で、未だにそのときのハイーブ君の顔が忘れられません。

続いて、現在の話です。現状は、生活をしていくのに十分な支援はもらえているそう。しかし、子供たちは中学までは行けるとしてもその先の教育を受けられるかどうかは見通しが立っていないらしいのです。「今ある支援がなくなるのは困ります。しかし、私たちが一番に臨むことは、更なる支援ではありません。もともと私たちはシリアに暮らしていたんです。支援が必要な人間ではなかったんです。だから、一刻も早く内戦を止めてください。これからもずっとヨルダンで暮らしていこうとは考えていません。早く帰りたいです。」とおっしゃっていました。シリア難民の方々の願いは国に帰ることただひとつだ、ということは、聞いていたしわかっていたつもりではありましたが、目の前でこれだけ強く言われてみると、胸を打たれるものがありました。

 

インタビューの途中でお父さんが外出しなければならなくなり、代わりにお父さんのお兄さんが答えてくれました。そのなかでは、「私が自信をもって言えるのは、シリア内戦に関する、世界中のあらゆる報道や記事には毎日目を通しているつもりだ、ということだ。今日の朝もロシアとアメリカが停戦合意をしたというが、国の利益に影響のない勢力に対しては一切明言しない。シリア内では、もはや国同士の合意などなんら意味がないということをもっとわかってほしい。」と話していました。田村さんのお宅でも聞いた話ですが、シリア国内では、だれがだれを殺しているのかも分からないような状況であるということ。だからとめようがなくなっている状況なのだと改めて感じました。

 

ホームステイを終えて、私がまず強く感じたのは、やはり、シリア人の家族を大切にする気持ちの強さです。田村さんのお宅で見た映画のなかで、シリア人が「私には妻がいる、子供がいる、幸せじゃない理由がないだろう?」と言っていた。その意味がホームステイをする中でより分かった気がします。そして、家族をこれほど大切にできるシリア人の方々は本当に豊かな心をもっているとおもいました。正直、私はアラビア語も話せなかったし、何を目的に来たのか、どんな素性なのか、十分に伝わっていたかどうかはわかりません。それでも、私のことをまるで家族のように迎え入れてくれて、なんとかコミュニケーションをとろうとゲームを教えてくれたり、日本語を覚えようとしてくれたりしました。そういう、他人を他人と思わずに迎え入れてくれる温かさみたいなものをずっと感じていました。いまでもお父さんは、FACEBOOKで子供たちと撮った写真を送ってくれたりします。

そういった豊かな国民性をもったシリア人たちがなぜヨルダンで暮らさなければならない状況なのか。逃げて来た時の悲惨な話を目の前で聞いて、そして今のシリアの現状を聞いて、感じたのは、「世界には今あらゆるところで紛争が起こっており、比べるものではないと思うが、だれがだれを殺しているのか、その目的もはっきりしていないというシリア内戦というのは、本当に異常な状況である」ということです。そしてこの状況があまり知られていない日本はおそろしく平和ボケをしているということです。仕方ないことかもしれないけれど、かつてはシリアも紛争とは程遠い天国に一番近い国などと呼ばれていたことも忘れてはいけません。日本がいつシリアと同じような状況に陥ってもおかしくない。わたしはスタツアという機会があったから、このことを知っただけで、日本人の大半は知らないと思います。本当はもっとメディアという大きな影響力を持つ存在がシリアのことをもっと発信してほしいけれど、それは難しいのだとしたら、私のように、生の声を聞いた人間は、微力ながらもそのことを発信していく必要があるとおもいます。帰ってきてすこし時間がたった現時点で感じていることは以上です。

【文責:9期 荒木莉子】

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ヨルダンスタツアを終えて 5

「同じ生活」

 

 

午後11時。「夜ご飯ができたよ。さあ食べて、食べて!」エネルギッシュな声が聞こえてくる。

正直、もうこの時間に食欲なんてない。外は祝日なのだろうか、深夜であっても騒がしい。

 

私はテーブルに並べられた晩御飯を見るなりすぐに食欲を取り戻した。

 

ボリューム満点の夕食。子どもたちが美味しそうに食べる姿。「行儀よくしなさい!」と言う両親の叫び声。食事後の後片付けをせっせとする長女と次女。

 

これらの光景は日本におけるものだろうか?

 

いや、違う。実は、私はアンマンでホームステイをしていた。ホームステイと言ってもただのホームステイではない。シリア難民の家庭に滞在していたのだ。

 

当初難民と聞き、自分とは別次元の世界にいる人々をイメージしていた。確かに、彼らは私たちが決して知り得ることのない、シリア紛争の戦火から逃れてきているのだ。さらに、ヨルダンに居住するためにも多くの制約を受けていて、経済的にも豊かであるとは言えない。そんな彼らであるのだが、家族と共に過ごす時間、友人との他愛のない会話を心から楽しんでいた。また、客人を手厚くもてなす習慣があり、ホームステイの際中も日本とは比べることができない程手厚い歓迎を受けた。

 

これらの光景を実際に見てきた私は、自分自身が抱いていた難民に対してのイメージが見事に崩れた。

 

彼らは私たちとそう変わらないのではないか?いや、むしろ日常に溢れている些細な出来事でさえも楽しむ力が日本人よりも強い気がした。

 

常々何かに対してレッテルを貼る人は多いのではないだろうか?シリア難民の家庭におけるホームステイは、自分が貼ったレッテルをはがす良い機会になった。

【文責:9期 大根優実】

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ヨルダンスタツアを終えて 4

今回ヨルダンで3泊4日のホームステイをした。17歳の息子を一人抱えた三人家族だった。

この家はシリアの中心都市ダマスカスの小さな町からヨルダンへ来たという。

でもヨルダンにいるのは自分たちだけで、親戚はドイツ、スイス、スウェーデン、レバノン、シリア、とバラバラ。

各地に散らばった家族の唯一の交流の場が電話であり、四六時中電話やテレビ電話をし、笑みや涙をこぼしていた。

「この子は自分たちのことを覚えていないの、画面越しでしか知らないの。」

これだけ可愛いがっているのに直接抱きしめてあげられない辛さ、その時に私は改めて難民たちの苦悩を感じた。

 

家賃とフードクーポンは支給されるが、電気代と水道代は自分たち払い。

ギリギリの生活を送っているとのことだったが、私には比較的余裕があるようにも見えた。

定職はないが、お母さんはアラビア語を個人的に教え、お父さんは近所の電気修理など、たまに行っているという。

 

日中はゴロゴロして、ご飯食べて、テレビ見て。

ごくごく普通の暮らしといえばそうだが、私には、何かやる事ないのかなあ、と思った。

その時に、ザータリの生きがいの話が思い出された。

「生きがい」がないからみんなキャンプから出て行く。やる事を探して。

都市に出たらスークやレストランやコーヒーショップなど、エンターテイメントに溢れている。

でも希望を持って外に出ても、職や学校がないとどうにもならないな、と思った。

 

イードの日、友達の家に行くよ!と言われて連れて行かれた。

何軒もの家を回り、同じシリア難民でも家の広さや生活環境、全く異なっていた。

でもどこへ行ってもその度にお茶やジュースを出してくれ、ウェルカムしてくれた。

シリア人は迫害を受ける、などといった事実も耳にしたことがあるが、見た限り自分のホームステイ先の男の子は友達も多く、学校も楽しく通っているように感じた。

 

シリア人は良い意味でプライドが高い。

誰と話してもシリアの昔の美しい写真を勝手に見せてきて、こんなに良いお家に住んで、オリーブの木があって、とシリアの自慢ばかりしてくる。

シリア人のSNSはアイラブシリア、シリア内戦に関わるもの、そのようなことばかり綴れている。

こんなに愛国心と家族愛が強い国民に私は出くわしたことがなかった。

最初、私はこの特徴がシリア人に特有のもの、シリア人すごい、と思っていた。

だが、もしかしたら自分が故郷を失い、家族とバラバラにあったとするならばこのように思うのかな、とも思った。

難民は守ってくれる人がいない、だからこそ家族だけが頼りであり、結束が必要となる。

 

いつもニコニコしていて、ジョークをかまして、のろけるお父さんは、たった3泊4日ではあったが、私の娘!と喜んでくれた。

とても可愛いお父さんだったが、誰もが心の傷を抱えていると考えると、距離が近くなれば近くなるほど胸が痛む。

故郷と引き裂かれ、知らない土地で一から何もかも始め、親戚にも会えない。

仕事もない。

昔の写真もほとんど焼けたという。

 

息をしているけど息をしていない。

これが難民の現状なんだな、と思った。

 

多くの笑顔と同時に多くの苦悩が垣間見えた。

難民を取り巻く苦悩と環境は私達が日本にいて想像できるようなものではない。

【文責:9期 秋山衿子】

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ヨルダンスタツアを終えて 3

9月4日から20日までヨルダンに行ってきた。

そもそも行こうと思ったきっかけはイスラム文化を直接肌で感じ、日本で発信していきたかったから。

難民問題に関して興味がなかったわけじゃ無いけど、なにより日本では感じることの出来ない文化に触れてみたいっていう思いでヨルダンまで行った。

 

 

ヨルダンでの生活で印象に残った場面がいくつかある。うまくまとめられないから中学生みたいに箇条書きで笑

 

まずは初めてアンマンのダウンタウンに足を踏み入れた時。

道行く人が「Welcome to Jordan!」と話しかけてくる。写真求められたり、腕掴まれたりといちいち絡んでくる笑

そして街全体が異常に明るい。活気がありすぎて逆に疲れるくらい。慣れてないってこともあってか二日目にダウンタウンを散策した時はただフラついてただけなのに宿に着いた瞬間爆睡した気がする笑

 

二つ目はイスラームの祝祭である犠牲祭(イード・アル=アドハー。たまたま日程が合って、羊の解体を見ることが出来た。そういうの見るのはかなり苦手だけどムスリムの生活を実体験してみたいっていう謎の好奇心のせいでその場から逃げれなかった。羊の血しぶきが思いっきり俺にかかったけど、文字通りイスラム文化を肌で感じることができた感じがしてなんか嬉しかった笑

 

三つ目は旅の中盤で、何人かのシリア人と話した時。ヨルダンで活動している難民支援団体サダーカさんがアレンジして下さって、シリア難民の家庭訪問だったり、負傷したシリア人のリハビリ施設に泊ったりする事ができた。

シリア難民の方々と直接話をして、難民問題に関する理解を深めるっていうのが今回の全体としての目的だったけど、やっぱり言語の壁が大きすぎて通訳越しでただ話を聞くって感じだった。

ただそれでも彼らが口にする現実は、いちいち僕をハッとさせる。

「どの家庭も誰かしらを失っている。」

「なによりもはやく内戦を終わらせてほしい。」

金銭的支援、物資救援などももちろん大切だが、いくらそのような支援をしても失った家族は戻ってこない。それよりももっと根本的な解決、内戦を終わらせて、これ以上命を落とさせない、一刻も早く元の生活に戻させるってことに世界中の人が目を向けることがまず必要なんじゃないかって強く感じた。

 

最後はなんといっても各地の観光。ペトラやら死海やらワディラムやらアカバやら。

とにかくenjoyしてました笑

特にワディラムは最高。

日中は4WDの後ろに乗って砂漠をドライブ。夜は月と星を見ながらまったり。

幸せすぎる空間だったなぁ。戻りたい。

 

 

実際に足を運ぶこと。お金がかかるし時間もかかるし勇気もいる。

それでも直接異文化を感じ、当事者である難民の方々から話を聴いた時、日本では到底気付くことのできないようなことに気づくことができる。

だからこれからも色んな国へ行って色んな文化に触れて色んな人と話していきたい。

 

次も中東だな笑

 

 

ちなみにヨルダンでついにyoutuberになりました。チャンネル登録よろしくお願いいたします。

【文責:9期 巴山光樹】

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ヨルダンスタツアを終えて 2

受験生だった時は、サークルで友達と遊んだり飲んだりして、彼女と色んなところ行って、お金がなくなったらバイトして…という普通の大学生活を送るつもりだった。

 

なのに、

 

 

どう考えてもおかしい。どうして今ヨルダンにいるんだ。

 

 

 

 

そんなことを、ヨルダンでの生活が始まったばかりの、トイレットペーパーすらない小バエの飛び交うトイレで考えていたことを思い出す。

 

 

思えば、状況がおかしくなったのは入学直後にあの忌まわしい日系タイ人と出会ってからである。それからSALに入り、なんやかんやで6月にヨルダンに行くことが決まり、よくわからないまま必死でバイトして旅行費を貯めた。

 

そして9月。本当にヨルダンに行ってしまった。

 

 

そこでの生活は日本とは全くと言っていいほど違うものだった。ホテルのシャワーはお湯が出ないし、朝ご飯に並ぶ野菜は決まってトマトとキュウリだけ。某遺跡では入場だけで8000円近く取られるし、街の人は街の人で「中国人か?」と声をかけてくる。途中から面倒臭くてそういうヤツには「こんにちは!」と日本語で返事していた。

 

 

それでも今、その旅を終えてまず浮かぶのは『行って良かった』という言葉だ。

散々文句も言ったが、それ以上に、ヨルダンならではの美味しい料理や面倒だけど可愛げのある街の人たちとの出会いは本当に忘れられない経験になった。

ワディラム砂漠や死海、紅海などたくさんの素晴らしい自然と触れ合えたことも中東の捉え方を変えるきっかけとなった。唯一ペトラ遺跡にはあまりいい思い出がないが。

 

 

日本では味わえない日々を過ごし、ひとまわり成長することができた。そんな気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つ、自分の常識を変えられたことがある。

 

 

今回の旅では、難民の方々と触れ合う機会があった。

その際に、ある難民の家庭を訪問した時だ。賑やかな地区から離れた場所に位置するその家には、ベッドもタンスもカーペットも、何もなかった。

しかし、彼らの顔には笑顔があふれていた。彼らは辛い過去を経て今ここにいるはずなのに。

その時初めて、自分が思っていた難民の姿が誤ったものだったことに気づいた。それと同時に、彼らの未来はここではなくシリアにあるべきだ、と強く感じた。

 

 

遠い異国の自分にとっては実感のなかった難民問題と向き合う2週間を通して「自分は何をするべきか」と常に考え続けた。

 

その問いの答えはついに出なかったが、難民として生きる彼らを、そして彼らを支援する人々をもっと知ってもらいたいという気持ちが強くなった。

もちろん、知ってどうなるかはわからない。それが問題の解決につながることはないかもしれない。

 

 

でも、たとえそうであっても、目を向けないで済む問題ではない。

 
 

 

 

もう一度、ヨルダンに帰ってこようと思う。

今度は、日本でひとまわり成長してから。

 

【文責:9期 髙橋英佑】

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ヨルダンスタツアを終えて 1

シリア難民支援団体サダーカの代表、田村さんに案内してもらい私たちはシリアクロスボーダーというシリア内戦での負傷者のリハビリ施設のほうに二日間ホームステイさせてもらった。施設に到着すると同時に、紅茶でもてなしてもらい、シリア難民の一人でもある施設のマネージャーさんから施設についての説明を受けた。施設は、他の組織から影響を受けない為にも、個人個人のファンドの下運営しているとのこと。記憶にしっかり刻み込まれているのが彼の切実な思いを聞いた時のことだった。

彼は、実体験や様々なストーリーを交えてシリア内戦の生々しい現場を伝えてくれた。そこで痛烈に感じたのは、政治的闘争、あるいは国際社会の利害が絡んだ各国の権力闘争などは、実際に被害にあった当事者達にとってはさほど重要ではなく、内戦が始まる直前まで彼らには普通の生活、日常があり、それが突然にも空爆や銃撃戦の嵐へと飲み込まれ、非日常に変わってしまったということ。印象的だったのが、話の中で何度も”peace”という言葉を耳にしたことだ。当事者にとってはそれが唯一の望みであり、それを実現するには一刻も早く内戦を終わらせなければならない。そんな当たり前のことを再認識させられた。

もう一つ、施設訪問で気づいたことがシリア難民の多くの方々、ヨルダンで暫定的に安定した生活を実現した人も含め、が一刻も早くシリアに帰国したがっているということだ。施設に足の不自由な方が一人いたのだが、私のホームステイ中にシリアに帰ってしまったのだ。それも内戦中のシリアに。また、シリアについて彼らに質問すると彼らは目を輝かせ、自信たっぷりにシリアの魅力について語ってくれる。果たして自分は日本についてこれほど自信に満ちて話すことができるのかと自信に問いた。

学生身分として私自身何が今後できるのか。内戦終結のためには国際社会の協力が不可欠なのは間違いない。だが国際社会の協力を学生が促せるのか?壁は高い。明確なのは、私を含め、問題意識を持つ人々が今後継続的に日本国内や国際社会にシリア難民や内戦の現状を発信し、この問題について訴えかけ続けなければならないということだ。

 

【文責:9期 大角信】

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シリア難民支援団体 サダーカ

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Souriyat Across Borders

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