可能性の宝庫 ~福島第一原発20km圏内に移住する選択肢~

【※ 2018 / 6月取材内容   年齢・事実情報等は取材時のもの】

はじめに

6月。小さな無人の駅を出て、古い民家が立ち並ぶ通りを抜けると、青々とした稲が潮風を受けてなびいていた。田んぼの間のあぜ道に立つと、稲が等間隔で植えられているのがよくわかる。

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水面では、アメンボが糸のような手足を動かし、自在に移動している。周囲に人はいないが、都会にはない「素朴な暮らし」がなんとなく伝わってくる。

しかし、田んぼの向こう側、私から30mほど先には、周囲を金網で囲まれた土地がある。その中には、巨大な黒い袋、フレコンバックが積み上げられている。あの金網の中では、今も多くの作業員の人が働いている。

大きいものでは1tもの重さになるというフレコンバックには、汚染された土や草木、落ち葉が詰められている。フレコンバックの黒さは、のどかな町の風景から遊離していた。

➀

ふと、「被災地」という言葉が頭をよぎる。

ここは、福島県双葉郡楢葉町(ならはまち)。

福島第一原発20km圏内に位置するこの町の住民は、東日本大震災で大気中に放出された放射性物質により、町外への避難を余儀なくされた。ようやくこの町に住めるようになったのは、それから4年半後、2015年9月のことだった。

S.A.L. Blog _ 慶應義塾大学 学生団体S.A.L.公式ブログ と 2 ページ ‎- Microsoft Edge 2018-12-25 00.33.382010年の楢葉町の人口は、7700人。一方、2018年6月に町で生活している人は3367人。町の活気は徐々に戻りつつあるが、65歳以上の住民が約4割を占めるなど、課題も多い。

そして、原発事故から7年経った今でも、汚染物は黒い袋に詰められ、町に残る。今だに7年前の大災害の跡が残っている。

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しかし、この町には、震災後に都市部から移り住んだ人がいる。

未だ課題の多いこの町のどこに魅力を感じ、何を思って住んでいるのか。

私は、取材を始めた。

「可能性」と「存在意義」の町 ここに住む理由

以前は東京の出版社で働いていた古谷かおりさん(34)は、楢葉に移住後、2017年9月に小料理屋「結のはじまり」を開店した。開店のきっかけとなったのは、原発業務や除染作業のため、県外から一時的に楢葉に来ている作業員の人たちだ。

友人づてに知り合った作業員の人から、「日々の愚痴や他愛のない話をする相手が欲しい」「温かい手料理が食べたい」という声を聞いたことが契機となった。店のコンセプトは、「作業員と地元の人の接点となる場」

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20席ほどの小さめの店内は、夕食時に近づくにつれ、お客さんで賑わっていった。お客さんが食べているのはサラダやお刺身の盛り合わせ、もつ煮込みだ。

「営業中にお客さんと話したい」という古谷さんの思いから、調理の大部分は事前に済ませる。開店後は盛りつけるだけ・温めるだけのものが中心だ。

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カウンターに並んでいるのは、昔から楢葉に住むおじさんと、常連の除染作業員。お互い初対面であったが、古谷さんが時折会話に入り、会話を盛り上げる。

酒が進むと、いつしか2人で話し始めている。古谷さんの存在により、お互いに「友達の友達」のような関係になり、打ち解けやすくなっているようだった。

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「作業員と地元の人の交流の場」としての小料理屋は実現しているようだ。

古谷さんも店の経営について、こう語る。

「現状の満足度は、もう120%。交流の場所という意味では、思い描いていたことができた。」

➁

しかし、古谷さんは今後の改善点もあるという。

「料理の腕をもっと上げたいです。作り置きでおいしいって、なかなか難しい。冷めてもおいしい料理や色が変わらない料理、温めなおしても肉が硬くならない料理は、意外と技術がいる。」

小料理屋でありながら、今後の課題として「料理」をあげた古谷さん。しかし、お客さんは美味しそうに料理を食べ、楽しげに夜のひと時を過ごしている。私は、この時古谷さんが単に謙遜しているだけだと思っていた。

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しかし、いわき経済新聞のライターとして活動し、古谷さんの友人でもある山根麻衣子さん(42)はこう語る。

「かおりちゃんは、元は料理がそんなに得意じゃない。飲食店をやった経験もない。でも、小料理屋はあそこに一つしかないから、たくさんのお客さんがお店に訪れている。

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現在の楢葉町は、町のための活動をする人が少なく、必要なものが欠けている。しかし、そのような状態だからこそ、1人1人がやりたいことを実現できる環境なのだという。

「(空いている)土地もあるし、チャレンジの機会もある。町を想っての行動なら必要としている人は絶対いるし、それをバックアップするクラウドファンディングも成り立つ。だから私はここは可能性の宝庫だと思ってる。」

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山根さんが言った「可能性の宝庫」という言葉は、私が今まで抱いていた「福島」のイメージを大きく覆すものだった。しかし、同時に納得感もあった。

現に、何人かの移住者は、「可能性の宝庫」たる楢葉で、今までの人生とは全く違う活動をしている。

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山根さんは、震災前は横浜で接客業・サービス業に携わっていた。現在は、いわき経済新聞のライターとして町外への情報発信を行う。「福島に関心のある人に、福島のアップデートされた情報を届けたい」という想いで、精力的に活動している。

現在住んでいるのはいわき市だが、楢葉周辺地域の記事も精力的に執筆する。

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一方、原発作業員として福島にやってきた市川英樹さん(46歳)は、2017年にクラウドファンディングで170万円を集め、田んぼアートを実現した。今年も、楢葉町内で自費と寄付金により、田んぼアートを実施している。

田んぼに描かれた楢葉のマスコットキャラのゆず太郎は、町内にあるサッカー競技施設「Jヴィレッジ」にちなんでサッカーをしている。目標は、2020年までに楢葉に30万人の観光客を呼ぶことだ。

➂

楢葉町周辺で、山根さんのように地域に根付いた発信をする人、市川さんのように観光客を呼ぶ取り組みをする人はそれほど多くはない。しかし、それは個人の挑戦が目立ち、注目されるということでもある。

周囲の人から協力を得られれば、一人一人の活動は、大きく広がる「可能性」がある。

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さらに、一般社団法人ならはみらいで楢葉の街づくりを担う西崎芽衣さん(26)は、大学卒業後、楢葉へ移住した。

大学休学中に、楢葉町の避難指示解除に立ち会った経験が、移住の決め手となった。「自分が本当にやりたいこと」を考え、東京での就職を辞退した上での決断だった。

S.A.L. Blog _ 慶應義塾大学 学生団体S.A.L.公式ブログ と 2 ページ ‎- Microsoft Edge 2018-12-25 00.33.38西崎さんは、被災地だからこそ、解決すべき課題があり、自分に役割があると笑顔で語る。西崎さんがこの町で暮らす理由の1つは、「存在意義」だ。

「『自分じゃないとダメなんだ』っていうのは被災地だったり田舎だったりするからこそ得られるやりがいだと思う。」

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また、西崎さんは、課題や問題を、ネガティブに捉えていないようだった。むしろ、取り組むこと・解決することに楽しさを見出しているようだった。

「いったん町として0になって、課題だらけだから、自分が関われるものがある。あとは上がっていくしかないしね。だから、何をやっても新しい。何をやっても復興してるって思える。何にでもチャレンジできる。

年齢問わず、自分がやりたいことに主体的に関われることは、やはり大きな魅力だろう。楢葉町の未来を見据える西崎さんの声は、明るかった。

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私が東京で抱いていた、福島への移住者像は、「根深い問題を抱えた福島を良くするために頑張る人」である。

しかし、私が古谷さんや西崎さんに抱いた印象は違った。もちろん福島を良くするために頑張ってはいるが、それ以前に「楢葉が楽しい」「楢葉の居心地がいい」といった感情があるようだった。

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そして、楢葉町の移住者は、この地域にある課題に高いモチベーションで取り組み、「可能性」を現実にしている。課題だらけのこの町で、それぞれが挑戦している。

だからこそ、次にここに来るときには、もっと良い町になっているのではないか。私は、楢葉町に、当初はなかった希望を抱いた。

ワンルーム7万以上~この町に来る障壁~

それでは、「可能性の宝庫」たる楢葉町に、なぜもっと移住者は入ってこないのか。もちろん、福島県外の人が、未だに悪い「被災地」イメージを持ち続けていることが、大きな要因の1つだろう。

しかし、その他にも、外から移り住むにあたり、現実の障害となっていることが2つある。

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原発立地特有の課題を語ってくれたのは、一般社団法人ならはみらいで西崎さんと共に働く、堺亮裕(りょうすけ)さん(25)だ。

「楢葉って工事関係の人が入ってきてて、すごい地価が高くなってる。ちょうど役場の目の前のマンションがワンルーム7万円以上。それで僕がここに来るときは困ったかな。」

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除染作業を請け負う企業は、相応の工事費用をもらうため、高値でも作業員のための住宅を用意できる。それにより地価は上がり、移住者の障壁となっている。

また、楢葉は、元々3世代住宅が多く、一人暮らし用の家は少ないという。特に単身の移住希望者にとっては厳しい現実である。

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「ここが課題の宝庫っていうのは間違いない。ただ、その課題に若い人たちが取り組めるような環境を作っていかないといけない。それが僕の一番の問題意識。」

現在、移住者の古谷さん・西崎さんは、もう一人の女性の移住者と共にルームシェアをしている。移住するにあたっては、移住者同士の協力体制も重要になってくるだろう。

住民の内輪意識~この町に来る障壁~

また、移住当初は、住む町のことを知り、人と信頼関係を築くことにかなり苦労したと山根さんは語る。

➃

「町の人は、多分『東京から何も知らない人が来て、何してくれるの』と思っていたし、私自身もそれを痛感した。移住後一年から一年半くらいは心を病んで、月に一回福島から東京の心療内科に通っていた。」

小さくまとまった町だからこそ、内輪意識やしがらみ、独自のルールが障壁となることがある。実際に、楢葉に一度移住したものの、馴染めずに町外へ出ていった人もいる。

山根さんは、移住者であれば、だれもが一回は病んだりくじけたりしているのではないか、と言う。若者が少ないからといって、ただ来れば、無条件で村人の一人として迎えられるわけでもないようだ。

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さらに、山根さんは、自らが主体的に動き、情報収集する大切さを語った。

「地元の人の話に、『そうなんですか』って言っているうちはそこで話が終わる。けど『私そこ行きました』『その方にお会いしました』って言えると、話が広がっていく。そうしてやっと地域の人と対等に話ができる。」

現状では、移住者の側が積極的かつ意識的に地域に溶け込んでいく必要性がある。しかし、それでは移住者が、人と打ち解けやすく、積極的に動ける人に限られてしまう。

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もちろん移住者側に相応の苦労が伴うのは仕方がないことだが、「この町で何かをしたい」と思う人が町外へ出ていくのは、あまりに惜しい。

今後は、町民側も、移住者を広く受け入れる寛容さが求められるのではないか。

風景の1つ1つが愛おしい~楢葉の豊かさ~

山根さんが語るように、小さくまとまった町だからこそ、外から人が移り住む難しさがある。しかし、一度入り込んでしまえば、そこは自分にとって非常に居心地の良い場所にもなり得る。

古谷さんは、楢葉町の魅力は、「近所の人との関係の中にある」という。

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他愛ない会話をする日常が幸せだって、住んでいる人はそれとなく感じている気がする。それで、そういうことを気付いている人たちと一緒にいるから私も幸せなんだなって思う。」

昔から楢葉に住む人々は、一度楢葉からの避難を余儀なくされ、何気ない日常を失った経験を持つ。だからこそ、より何気ない日々の出来事に幸せを感じるのかもしれない。

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そして、それが移住者である古谷さんにも波及しているようだ。

「目に移る風景の1つ1つが、全てご近所さんにお手入れされている。綺麗に刈られた草とか、庭先のお花とか、田んぼとか。フレコンバックだって知り合いが移動とか運搬とかしている。ここは少ない人数で見知った人たちが風景を作っているから、風景の1つ1つすごく愛おしい。

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古谷さんは、汚染物を詰めたフレコンバックを含め、風景全てが「愛おしい」という。そうした何気ない日常の風景を、「愛おしい」と思ったことが、私にあっただろうか。

良い成績をとったり、旅行したり、美味しいものを食べたり。そうした刹那的な喜びはあっても、古谷さんのような日々の恒常的な幸せは感じていない気がする。

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楢葉には多くの物がない。店・人・交通手段・住宅・観光資源・特産品、これら全てが足りていない。物質的豊かさ、便利さで言えば、東京には遠く及ばない。

しかし、花を植えるご近所さんがいて、それによって作られる風景がある。町の機能が停止した過去を経て、そうした日常に幸せを感じられる人々がいる。

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古谷さんは言う。「東京にはもう帰れない」と。

この町には、合理性超えて、人を惹きつけるものが確かにある。

終わりに~これからの楢葉町~

IMG_23812018年6月26日。「ここなら笑店街」がオープンした。

「商」と「笑」がかかった名前には、町民に買い物を楽しみ、笑顔になってほしいという願いが込められている。

開店したのは、ホームセンター、スーパー、カフェ、飲食店など、10店舗。主導したのは、一般社団法人ならはみらいの西崎さんや堺さんだ。

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この町は、未だに被災した過去を引きずっている。しかし、その過去は、可能性ややりがいを生み、移住者がやりたいことに挑戦できる空間を作り出した。

そして、町に惹かれた移住者の手により、この町は未来に向けて少しずつ変わっていく。楢葉町は被災地でありながら、「新天地」でもある。

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移住は、人生における大きな決断であり、気軽にできることではない。原発立地の町となると、さらに抵抗はあるだろう。だからこそ、東京から車で3時間30分。楢葉町に是非1度だけ足を運んでほしい。

きっとそこには、魅力的で、可能性に満ちた、「被災地」が広がっている。

【文責 9期 小川聡仁】

永遠の未完成 

はっとして、動けなくなった。

それは、真っ赤な部屋の真ん中に、たった一つだけ置かれている。母親が子どもをあやしているとも、諭しているともとれるような、親子の像。正直どこにでもありそうな、そんな像だ。しかしなぜだろう。部屋に入ってこの像を目にした瞬間、私は動けなくなった。その魔力に取り憑かれたように、いろんな角度から凝視し続けた。

像が置かれているその部屋には紙と鉛筆が置いてあり、誰でも自由にデッサンができるようになっていた。そして、デッサンは部屋の壁に飾ることができる。部屋の壁中が、ここに訪れた人々の描いた絵で埋め尽くされていた。飾られた絵は、彼らがその瞬間に感じたことを物語る。この像をどこからどう見たのか。何を感じて、何を表そうとしたのか。描き方も人それぞれ。四角く描く人。写実的に描く人。丸みのあるタッチで描く人。

私も描いてみた。人に見られて少しドキドキしながら、格好をつけてそれっぽく。親の顔だけが見えるような角度から、像の輪郭を柔らかい線でなぞる。完成した絵に名前と日付を入れて、壁の一番右端にちょこんと貼った。5分ほどで描いた簡単な絵だけれど、私も像と空間の一部になれた気がした。見るだけとは、違う。描くことでしか感じられないことがあった。

その空間が、特別だった。価値観、性別、肌の色、言語、存在している時間、が異なっているにも関わらず、「親子の像」、作者、デッサンをする人、鑑賞者、それぞれの感情や思惑が入り混じって確かにそこに感じられる。

そうか。この空間だからこそ、こんなにもこの親子の像に魅せられたのか。像も空間も訪れる人も、全部合わせて一つの作品なんだ。だから、永遠に未完成の作品。今度来るときにはどんな作品になっているのだろうか。気がついたら、目頭が熱くなっていた。
喉の奥がきゅっと閉まるような感覚を感じながら、後ろ髪を引かれる思いで私はその部屋を後にした。

@オスロ国立美術館、ノルウェー

【文責 10期 佐藤しずく】

Fika

熱々のコーヒーを一口飲み、あのなんともいえない幸福感を僕は感じていた。

ここはスウェーデンのウプサラという町にあるカフェ。コーヒー好きの僕がここに来たのは正しかったかもしれない。コーヒーの匂い漂う店内、西洋風の派手な色合いの家具、壁には絵の具を無造作に塗りたくったような水彩画が飾られている。そんな店内でコーヒーを飲みながらたくさんの人たちが談笑し、笑い合っている。平日の昼間からこんなにも多くの人たちで賑わうカフェのどこか温かみを感じる。

スウェーデンでは、コーヒーを飲む人たちをよく見かける。テラス席で話し込む夫婦。公園のベンチで座っている若者。その傍らにはいつも一杯のコーヒーがある。この光景はスウェーデンの伝統的な文化、フィーカが関係しているようだ。フィーカでは知り合いや友人と一緒にコーヒーと焼き菓子を楽しむ文化。スウェーデンではよく行われ、さまざまな人種、言語、民族関係なく楽しむ文化として親しまれている。というようなことをなんかの本で読んだことをそのとき思い出した。

店内は多種多様な人たちで賑わい、まるで世界中の人たちを集めてお茶会をしているようだ。いくつもの人種や宗教などを受け入れるスウェーデンにとって、フィーカは幸せを作り出す一つの要因なのかも知れない。そう思いながら、おもむろに隣の友人に視線を移す。

「そういえばさ・・・」

いつもは耐えられない照れくささが、コーヒーの匂いが立ち込める温かい雰囲気に隠れ、普段はなかなか話そうとは思えない話をついついしたくなる。話を夢中でしていたら気づけば外は夕暮れが一日の終わりを告げていた。しかし今夜の話は一向に終わらなさそうだ。

 

コーヒーの匂いを纏った空気を吸い込んでみる。そしてゆっくりと吐いていく。

自分がただのコーヒー好きからフィーカ好きに変わるのをジワジワと感じた。

【文責 9期 井上佳暁】

季節について

8月の18日から3週間ほどインドネシアに行った。インドネシアへの渡航は今年で二回目。前回はおよそ半年前の3月初め。日本では、少しずつ暖かくなってきた時期で、シャツ二枚に薄いウインドブレーカーで成田空港に向かったことを覚えている。飛行機内や空港内がえらく寒いため、今回も同じウインドブレーカーをバックに入れてきた。この半年一度も洗っていない。

一年のうちで同じ国に二回も行くことは今までなかったし、インドネシアは一年中あまり温度差がなく、年間の変化は降水量と湿度くらいだったので、入国するときには少し不思議な気分になった。何も真新しい感覚などなく、この半年間ずっとこの島国にいたような気分だった。

前回の渡航で初めて会った、ジャカルタに住むインドネシア人の友人に再び会った。彼らと再会して間もなく、半年合わなかったことが嘘のように、くだらない冗談を言い合い、他の誰にも理解できないインサイドジョークを繰り広げた。

滞在した3週間のうち、はじめ5日と後5日はジャカルタに泊まり、彼らと繁々会っていた。その度に彼らは、前回に会った時期を全く覚えていない、というような返答をしていた。私が前回何月に来たか、何カ月前に来たかなども、覚えていない。私が3月頃だと言っても首をかしげる始末。なんだ、インドネシア人はずぼらで時間の感覚もないのか、などと一度は失礼な推測をしたものの、その後もシャワーを浴びている時に思いだすくらいには気になっていた。

今回の渡航で最後に彼らに会ったレストランで、来年か再来年に日本で再会しようという会話になった。彼らのうち一人はよく日本に来るのだが、もう一人は一度も海外に行ったことがなければ、雪などは見たこともない。雪は見てみたいが寒いのが大の苦手ということで、夏の日本に来ること、そして山登り、川下りを勧めた。その時に私ははっとした。

当たり前のことなのだが、彼らの国には四季がないのだ。彼らは一年の出来事を季節の変化で結びつけることはしない。四季を楽しむ我々は、無意識に、ある出来事が起こった時の気温や湿度、草花の色彩やその芳香、さらには雲の高さや風の質感など、あらゆる季節の顔色を覚えている。そしてそれらを出来事と結び合わせている。

これは、インドネシア人と日本人の記憶力の差ではない。我々日本人の生活、命が季節の顔色と共に成立していることの証明である。そう思うと同時に、この夏の涼しさの香りを全身いっぱいでかぐことに、今の自分を感じる。

【文責 8期 高橋渉】

一本の線

あの人の一歩。

この子の一歩。

足跡がつながって【一本の線】になるのはいつになるだろう?

***

首都ダッカ滞在の最終日、現地のNGOエクマットラさんの設立者のひとりである方から、お話をうかがう機会をいただいた。

エクマットラの語源は
エク(一本)+ マットラ(線)

『自国バングラデシュのため、格差に関係なく共有できるものがあるはず』
『裕福な人が見ないふりをしている事実を啓発していくことで、格差を縮めたい。その結果、裕福な人と貧しい人が歩み寄って、【一本の線】を作ることができたら』

そんな願いのこめられた名前だそうだ。

***

アジア最貧国と言われるバングラデシュでも、富裕層はとても裕福でエリートだ。日本やアメリカなどいわゆる先進国を知っている彼らの中には

「バングラデシュは嫌いだ」
バングラデシュの貧困は「恥ずかしい」「自分には関係ない」
と言う人もいる。
アジア最貧国という現状に対して何をしたらよいかわからないのかもしれない。

さて

私は「先進国が途上国に何かしてあげよう」なんてこと考えるよりほかにもできることがあるのではないかと思った。

上から目線の支援やいわゆる「先進国」モデルの押し付けはいらない。
バングラデシュ人の目線に立ち、寄り添い、対話をする中で意識を変えていくことができれば、バングラデシュ人は自分たちの手で国を変えていこうとするだろう。

例えば、エクマットラでは、今日一日の生活費の稼ぎ手として子供が必要だから、学校があっても、通わせたくないと考える親が多いことに目を付けた。
その親たちと話しながらまず啓発を行うことで、少しずつ子供たちへの教育を根付かせようとしているのだ。

このように、時間はかかるだろうが、意識が変わり、行動が変わり、国が変わる。
そんな姿を私は見てみたい。

え?理想論だって?

根拠はある。

それは実際にバングラデシュで触れた人の温かさだったり
物質的な貧しさを補う精神的な強さだったり
もっともっと幸せになりたいという勢いだったり
そしておせっかいなくらいの親切心だったり。

もしこの人たちがひとつの方向を見て【一本の線】を作ろうとしたら・・・
そう考えると楽しみで仕方がない。

***

あの人の一歩。

この子の一歩。

足跡がつながって【一本の線】になるのはいつになるだろう?

とりあえず、私も歩き続けてみよう。
自分にできることを探しながら。

2012.09.17

【文責 五艘志織】

宇宙人のような感覚

セルビアとマケドニアではほとんど感じなかったが、コソボで自分に強い印象を与えたのは、人々の好奇心に満ち溢れた視線だった。
コソボの街の道をアジア系の人々が歩くことは珍しいもんだろうか、地元の人々は自分たちに声をかけたが、それは時には友好的であり、ときには挑発的であった。

こうした挑発的な行為として自分たちが道を歩いていたら、見た瞬間即座に自分たちを見た目がアジア人だから中国人と判断して、
「チャイニーズ!チャイニーズ!」
と呼びかけたり、挙句の果てには目を細めたりする子供もいた。

自分たちは当然それに怒りを覚えるが、そのような扱いを人々からうけることにフラストレーションが溜るのも当たり前だ。
なぜなら日常的に日本に暮らしていて、周りが全員見た目同じであれば、外見で扱われることは全くないからだ。

しかしコソボでは自分たちは外見的にコソボの人々とは全く異なり、コソボで日常的に暮らしている人からしたら日常的にアジアの人々と接する機会はほとんどない。
このような状況を考慮したら我々日本人は、コソボに住む人々からしてみたら、まるで宇宙人であるかのような目で見られているのかもしれない。

2015.10.20

【文責:シルバーマン剛】

ネパール、カトマンズからバンで12時間。見渡す限りの大自然の中、延々と続くボコボコの山道を走り続け不安になってきた頃、やっと村に到着した。

ネパールの山奥、緑に囲まれたこの場所の名前はフワス村。
水道もガスも通ってなかったが、人々が自給自足で暮らし、牛やヤギが行き交い、夜は満点の星空に包まれるこの村には都会の喧騒とはかけ離れたゆったりとした時間が流れていた。

そんな村に2泊したのだが、「ナマステ!」と笑顔で歓迎してくれた心優しい村人達と仲良くなるにはあまり時間も言葉もいらなかった。
やんちゃで無邪気な村の子供達とも沢山遊んで仲良くなり、大好きになった。

ある時、荷物を整理している際に鞄からチョコレートが見え、それを見て欲しがる子供がいたので何も考えずに一つあげた。
すると、その様子を見ていた他の子供達も皆「もう一つ欲しい」「何かちょうだい」と人が変わった様にねだり始めた。さらには人の鞄を勝手に漁るまでになってしまった。
そこにはさっきまでの大自然で無邪気に遊ぶ子供達の姿は無く、僕の目にはもはや餌にたかる動物の様に見えてきて恐怖すら感じた。

そしてこの頃になってやっと僕は自分の犯した事の重大さに気付いた。それまで子供達はフワス村での生活を受け入れて来たのに、たった一つチョコレートをあげたことで物欲を一気に目覚めさせてしまったのだ。
このままでは自分で苦労して生活することに馬鹿馬鹿しくなり、ただただ楽に物を貰おうとするダメな人間になっていってしまうと思った。

これは一個人にだけでなく、もっと大きな視点でも言えると思う。
貧しい国に支援物資を送る活動がよくあるが、単純に完成品を送り続けた場合、貰う側の人間は延々に受け取り続けるだけで自分で働こうとはしないだろう。
そしてどんどん物欲にまみれることでむしろ治安も悪化してしまうかもしれない。
支援するなら完成品では無く作り方や技術を教えなければ本当にその国を救う事にはならないのだろうと感じた。

これらの事は頭では分かってたつもりだったが、実際に体験すると衝撃的だった。
またこの先何が起こるかは分からないが、体験した出来事の奥を考えられるようにしてこれからの旅を続けたい。

2013.09.16
【文責:イベント局1年 大矢駿介】

来週の予定

来週の予定。授業・バイト・サークル。

多分、再来週もその次も同じような予定で私のスケジュール帳は埋まっていく。

「自分の家がなくなるかも知れない」
そんな嘘みたいな来週の予定を、すっと話してくれた人がいた。
彼女と出会ったのは、フィリピン・パヤタス。首都マニラからバンで二時間とかからないこの地区は、フィリピン第二のゴミ山が存在することで知られている。「そこで生きている」ただそれだけの事実で、彼らはフィリピン国内の差別対象になってきた。
「パヤタス?どうしてわざわざそんなところにいくの」と、仲良くなったホステルのお兄ちゃんライアンは言った。怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情。なんと答えたらいいのか分からない自分がいた。

ライアンがそういうのも無理はなかった。
街を歩けば、ゴミ山からの腐卵臭が鼻をつく。裏路地に入れば、皮膚のただれた犬たちがつまらなさそうな上目遣いでこっちを見ている。ゴミと、泥でぬかるんだ足元。何千というハエがせわしなく八の字旋回を繰り返している。

それでも確かに、ここには彼らの生活があった。とてつもなく大きいゴミ山の頂上では、豆粒くらいの黒い人影が2、3動いていた。
スカベンジャーと呼ばれる彼らは、ゴミ拾いで生計をたてている。定職を持たず日銭で命をつなぐ彼らにとって、あの山はいざという時の収入源だった。
健康のことを考えると一刻も早く閉鎖したほうがいい。ゴミ山が差別の一因になっている。そんなこと、痛いほど分かっている。それでも…。
継続か閉鎖か。彼らの心は揺れていた。

彼女の家は、そんな複雑な山の裾野にポツンと佇んでいた。ご近所さんは、先週までに皆、政府による立ち退きにあった。安全のためという建前のもとで、着々とゴミ山の拡大がすすめられているのだという。

家に招き入れてくれた彼女の名前は、ローリー。まだ20代ながら1・5・7歳の子供たちと旦那さんと、ここパヤタスで生きている。少し垂れ目で大きな瞳、ちいさめの八重歯。後ろでひとつにくくった黒髪はつやつやしていた。
彼女は、私がなにを聞いても隠そうとはしなかった。けれどそれと同時に、自分の境遇について絶対に暗い印象を与えようとはしなかった。
それは彼女が「貧しくてかわいそうな人達っていう目線の報道しかされないのが悲しい。ここで何がおきているのか、自分たちの声を届けてほしいのに」。と話したことに通じる姿勢だった。

「この家はあまったセメントをもらってきたり、貯めたお金で材料を買ったりして作ったの。あと、廃材を拾ってくることもあった。二年間かけて旦那さんが少しずつ大きくしたのよ」。と嬉しそうに笑った。
でもあの家はもう、ゴミ山に飲み込まれているかもしれない。

継続と閉鎖に揺れるこの地だけれど、誰しも自分の家を守りたいと願っていた。当たり前の願い。この地ではそれすら矛盾したものに聞こえてしまう。あの山無しでは生きていけないのに、そのせいで家が消えていく。怒りでも悲しみでも、そしてもちろん同情でもない感情がこみ上げた。

あの時ライアンが見せた表情の意味がほんの少し、分かったような気がした。

【文責 広報局2年 松坂くるみ】

旅の魅力

スタディツアーの募集が始まる前から
私はインドに行くことを決めていた

中学生のときに紀行モノにはまり読みあさったが
とりわけインドに引き込まれた
活字からでも騒がしいインドの空気が感じられた
衛生面や治安でもちょっとアブナイ所があって、冒険心をくすぐられた
そんな憧れのインドに行くことが決まり、出発前からわくわくしていた

インドに行けば何か価値観が変わるのではないか
そう漠然と期待して乗り込んだ

デリー、ヴァラナシ、アーグラー、プリー、コルカタと見て回ったが、
一番インドらしさを感じられたのはヴァラナシではないだろうか

日の出前からガンジス川で沐浴する人々
ガンジス川のほとりにある、火葬した遺灰を川に流す火葬場
思いがけないところに落ちている牛の糞
クラクションが絶え間なく鳴り響く道路
一番にぎわっているダシャーシュワメード・ロードでは
バックパッカーや日本語をぺらぺら使いこなすインド人など人がごったがえし、
活気にあふれていた
これが私の見たかったインドの姿だ、と思った

インドにはあふれんばかりの人がいる
当然いい人も悪い人もいる
話してみなければわからない
だまされるかも。売りつけられるかも。危ないとこに連れて行かれるかも。
そんな危険を覚悟しながら、内心びくびくしながら、会話する
これが多様な人々、善悪両極端の人間がいるインドならではの魅力だ
そして、インドが好きになるか嫌いになるかの分かれ目だと思う
幸いにして今回は親切な人ばかりにめぐりあえたが、次はわからない

この旅では、たくさんの出会いがあった
インドを旅する日本人のバックパッカーや、インドで働く日本人、
日本に18年間住み日本語が堪能なインド人、
会ったその場でレストランの送り迎えをしてくれたノリの良いインド人
日本語も英語も通じないが、笑顔でコミュニケーションした食堂のおじさん
みな私たちに対して親切にしてくれ、貴重な体験談や興味深い話をしてくれた

もちろんガイドブックに載っている美しい世界遺産にも感動する
でもそのような観光スポットは不変だから、何十年か後にまた訪れればいい

しかし「人」は違う。
同じところに行っても必ず新たな出会いがある
それこそがリュックを背負って街を歩く旅の魅力だと実感した

10日ほど滞在したものの、インドという国がどんな国なのか、正直つかめなかった
あと何回でも行って、五感でディープなインドにひたりたい
新たな出会いも、今回出会った人との再会も楽しみだ

もう私はインドのとりこになった

2013.09.24
【文責:マネジメント局2年 宮川扶美子】

平和

僕はこのスタディツアー中、この言葉を何度も聞いた。

 聞いた場面は様々だ。タイ、ネパール、インドとどこでも耳にした。とりわけネパールではたくさんこの言葉を耳にした。

 ネパールにあるチベット難民キャンプでの話を紹介したい。
 ここではチベットを中国からの独立を目指す人々の話を聞いた。チベット人による独立運動への弾圧、弾圧にともなう中国軍によるチベット人の大量虐殺や人権侵害、またチベット人の抗議自殺。特に難民キャンプの入り口付近にあった、焼身自殺した人々の写真は衝撃的なものだった。
 チベットには軍事力もなければ、財力もない。彼らの資金源は中国からの支援金に頼るのみである。それにも関わらず独立を訴えている。僕たちは疑問を隠せなかった。
 「仮に中国から独立して、財政面はどうするつもりなのか」
 彼らはこう答えるのみだった。
 「平和的な解決しか道はない」
 彼らはいつか中国が変わるのを待ち続けるしかないと言った。彼らはいつか中国がチベットを解放し、かつ資金援助を続けてくれるような平和的な日々を、ただひたすら待っているのだ。
 僕は「平和」とは何なのか、と自問した。僕には彼らの言う「平和」は彼らにとって都合のいい決まり文句にしか聞こえなかった。人と人とが助け合い、みんなが幸せになるそれが平和なのか。そんな世界がいつか訪れるのか。また平和というものは存在するのか。

 スタディツアーに行く前までは、人と人とが助け合い、みんなが幸せな世の中が「平和」なのだと思っていた僕ですが、スタディツアーに行って、現実を突きつけられて、見てからは、何が「平和」なのかわからなくなった。「平和」な世の中なんて実現不可能なんじゃないか。

皆さんはみんながみんな幸せなんてあり得ると思いますか。人の幸せは他人の不幸の上に成り立っているというのに。また平和とは何だと思いますか。

2013.09.27
【文責:広報局1年長谷川大貴】