一本の線

あの人の一歩。

この子の一歩。

足跡がつながって【一本の線】になるのはいつになるだろう?

***

首都ダッカ滞在の最終日、現地のNGOエクマットラさんの設立者のひとりである方から、お話をうかがう機会をいただいた。

エクマットラの語源は
エク(一本)+ マットラ(線)

『自国バングラデシュのため、格差に関係なく共有できるものがあるはず』
『裕福な人が見ないふりをしている事実を啓発していくことで、格差を縮めたい。その結果、裕福な人と貧しい人が歩み寄って、【一本の線】を作ることができたら』

そんな願いのこめられた名前だそうだ。

***

アジア最貧国と言われるバングラデシュでも、富裕層はとても裕福でエリートだ。日本やアメリカなどいわゆる先進国を知っている彼らの中には

「バングラデシュは嫌いだ」
バングラデシュの貧困は「恥ずかしい」「自分には関係ない」
と言う人もいる。
アジア最貧国という現状に対して何をしたらよいかわからないのかもしれない。

さて

私は「先進国が途上国に何かしてあげよう」なんてこと考えるよりほかにもできることがあるのではないかと思った。

上から目線の支援やいわゆる「先進国」モデルの押し付けはいらない。
バングラデシュ人の目線に立ち、寄り添い、対話をする中で意識を変えていくことができれば、バングラデシュ人は自分たちの手で国を変えていこうとするだろう。

例えば、エクマットラでは、今日一日の生活費の稼ぎ手として子供が必要だから、学校があっても、通わせたくないと考える親が多いことに目を付けた。
その親たちと話しながらまず啓発を行うことで、少しずつ子供たちへの教育を根付かせようとしているのだ。

このように、時間はかかるだろうが、意識が変わり、行動が変わり、国が変わる。
そんな姿を私は見てみたい。

え?理想論だって?

根拠はある。

それは実際にバングラデシュで触れた人の温かさだったり
物質的な貧しさを補う精神的な強さだったり
もっともっと幸せになりたいという勢いだったり
そしておせっかいなくらいの親切心だったり。

もしこの人たちがひとつの方向を見て【一本の線】を作ろうとしたら・・・
そう考えると楽しみで仕方がない。

***

あの人の一歩。

この子の一歩。

足跡がつながって【一本の線】になるのはいつになるだろう?

とりあえず、私も歩き続けてみよう。
自分にできることを探しながら。

2012.09.17

【文責 五艘志織】

宇宙人のような感覚

セルビアとマケドニアではほとんど感じなかったが、コソボで自分に強い印象を与えたのは、人々の好奇心に満ち溢れた視線だった。
コソボの街の道をアジア系の人々が歩くことは珍しいもんだろうか、地元の人々は自分たちに声をかけたが、それは時には友好的であり、ときには挑発的であった。

こうした挑発的な行為として自分たちが道を歩いていたら、見た瞬間即座に自分たちを見た目がアジア人だから中国人と判断して、
「チャイニーズ!チャイニーズ!」
と呼びかけたり、挙句の果てには目を細めたりする子供もいた。

自分たちは当然それに怒りを覚えるが、そのような扱いを人々からうけることにフラストレーションが溜るのも当たり前だ。
なぜなら日常的に日本に暮らしていて、周りが全員見た目同じであれば、外見で扱われることは全くないからだ。

しかしコソボでは自分たちは外見的にコソボの人々とは全く異なり、コソボで日常的に暮らしている人からしたら日常的にアジアの人々と接する機会はほとんどない。
このような状況を考慮したら我々日本人は、コソボに住む人々からしてみたら、まるで宇宙人であるかのような目で見られているのかもしれない。

2015.10.20

【文責:シルバーマン剛】

ネパール、カトマンズからバンで12時間。見渡す限りの大自然の中、延々と続くボコボコの山道を走り続け不安になってきた頃、やっと村に到着した。

ネパールの山奥、緑に囲まれたこの場所の名前はフワス村。
水道もガスも通ってなかったが、人々が自給自足で暮らし、牛やヤギが行き交い、夜は満点の星空に包まれるこの村には都会の喧騒とはかけ離れたゆったりとした時間が流れていた。

そんな村に2泊したのだが、「ナマステ!」と笑顔で歓迎してくれた心優しい村人達と仲良くなるにはあまり時間も言葉もいらなかった。
やんちゃで無邪気な村の子供達とも沢山遊んで仲良くなり、大好きになった。

ある時、荷物を整理している際に鞄からチョコレートが見え、それを見て欲しがる子供がいたので何も考えずに一つあげた。
すると、その様子を見ていた他の子供達も皆「もう一つ欲しい」「何かちょうだい」と人が変わった様にねだり始めた。さらには人の鞄を勝手に漁るまでになってしまった。
そこにはさっきまでの大自然で無邪気に遊ぶ子供達の姿は無く、僕の目にはもはや餌にたかる動物の様に見えてきて恐怖すら感じた。

そしてこの頃になってやっと僕は自分の犯した事の重大さに気付いた。それまで子供達はフワス村での生活を受け入れて来たのに、たった一つチョコレートをあげたことで物欲を一気に目覚めさせてしまったのだ。
このままでは自分で苦労して生活することに馬鹿馬鹿しくなり、ただただ楽に物を貰おうとするダメな人間になっていってしまうと思った。

これは一個人にだけでなく、もっと大きな視点でも言えると思う。
貧しい国に支援物資を送る活動がよくあるが、単純に完成品を送り続けた場合、貰う側の人間は延々に受け取り続けるだけで自分で働こうとはしないだろう。
そしてどんどん物欲にまみれることでむしろ治安も悪化してしまうかもしれない。
支援するなら完成品では無く作り方や技術を教えなければ本当にその国を救う事にはならないのだろうと感じた。

これらの事は頭では分かってたつもりだったが、実際に体験すると衝撃的だった。
またこの先何が起こるかは分からないが、体験した出来事の奥を考えられるようにしてこれからの旅を続けたい。

2013.09.16
【文責:イベント局1年 大矢駿介】

来週の予定

来週の予定。授業・バイト・サークル。

多分、再来週もその次も同じような予定で私のスケジュール帳は埋まっていく。

「自分の家がなくなるかも知れない」
そんな嘘みたいな来週の予定を、すっと話してくれた人がいた。
彼女と出会ったのは、フィリピン・パヤタス。首都マニラからバンで二時間とかからないこの地区は、フィリピン第二のゴミ山が存在することで知られている。「そこで生きている」ただそれだけの事実で、彼らはフィリピン国内の差別対象になってきた。
「パヤタス?どうしてわざわざそんなところにいくの」と、仲良くなったホステルのお兄ちゃんライアンは言った。怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情。なんと答えたらいいのか分からない自分がいた。

ライアンがそういうのも無理はなかった。
街を歩けば、ゴミ山からの腐卵臭が鼻をつく。裏路地に入れば、皮膚のただれた犬たちがつまらなさそうな上目遣いでこっちを見ている。ゴミと、泥でぬかるんだ足元。何千というハエがせわしなく八の字旋回を繰り返している。

それでも確かに、ここには彼らの生活があった。とてつもなく大きいゴミ山の頂上では、豆粒くらいの黒い人影が2、3動いていた。
スカベンジャーと呼ばれる彼らは、ゴミ拾いで生計をたてている。定職を持たず日銭で命をつなぐ彼らにとって、あの山はいざという時の収入源だった。
健康のことを考えると一刻も早く閉鎖したほうがいい。ゴミ山が差別の一因になっている。そんなこと、痛いほど分かっている。それでも…。
継続か閉鎖か。彼らの心は揺れていた。

彼女の家は、そんな複雑な山の裾野にポツンと佇んでいた。ご近所さんは、先週までに皆、政府による立ち退きにあった。安全のためという建前のもとで、着々とゴミ山の拡大がすすめられているのだという。

家に招き入れてくれた彼女の名前は、ローリー。まだ20代ながら1・5・7歳の子供たちと旦那さんと、ここパヤタスで生きている。少し垂れ目で大きな瞳、ちいさめの八重歯。後ろでひとつにくくった黒髪はつやつやしていた。
彼女は、私がなにを聞いても隠そうとはしなかった。けれどそれと同時に、自分の境遇について絶対に暗い印象を与えようとはしなかった。
それは彼女が「貧しくてかわいそうな人達っていう目線の報道しかされないのが悲しい。ここで何がおきているのか、自分たちの声を届けてほしいのに」。と話したことに通じる姿勢だった。

「この家はあまったセメントをもらってきたり、貯めたお金で材料を買ったりして作ったの。あと、廃材を拾ってくることもあった。二年間かけて旦那さんが少しずつ大きくしたのよ」。と嬉しそうに笑った。
でもあの家はもう、ゴミ山に飲み込まれているかもしれない。

継続と閉鎖に揺れるこの地だけれど、誰しも自分の家を守りたいと願っていた。当たり前の願い。この地ではそれすら矛盾したものに聞こえてしまう。あの山無しでは生きていけないのに、そのせいで家が消えていく。怒りでも悲しみでも、そしてもちろん同情でもない感情がこみ上げた。

あの時ライアンが見せた表情の意味がほんの少し、分かったような気がした。

【文責 広報局2年 松坂くるみ】

旅の魅力

スタディツアーの募集が始まる前から
私はインドに行くことを決めていた

中学生のときに紀行モノにはまり読みあさったが
とりわけインドに引き込まれた
活字からでも騒がしいインドの空気が感じられた
衛生面や治安でもちょっとアブナイ所があって、冒険心をくすぐられた
そんな憧れのインドに行くことが決まり、出発前からわくわくしていた

インドに行けば何か価値観が変わるのではないか
そう漠然と期待して乗り込んだ

デリー、ヴァラナシ、アーグラー、プリー、コルカタと見て回ったが、
一番インドらしさを感じられたのはヴァラナシではないだろうか

日の出前からガンジス川で沐浴する人々
ガンジス川のほとりにある、火葬した遺灰を川に流す火葬場
思いがけないところに落ちている牛の糞
クラクションが絶え間なく鳴り響く道路
一番にぎわっているダシャーシュワメード・ロードでは
バックパッカーや日本語をぺらぺら使いこなすインド人など人がごったがえし、
活気にあふれていた
これが私の見たかったインドの姿だ、と思った

インドにはあふれんばかりの人がいる
当然いい人も悪い人もいる
話してみなければわからない
だまされるかも。売りつけられるかも。危ないとこに連れて行かれるかも。
そんな危険を覚悟しながら、内心びくびくしながら、会話する
これが多様な人々、善悪両極端の人間がいるインドならではの魅力だ
そして、インドが好きになるか嫌いになるかの分かれ目だと思う
幸いにして今回は親切な人ばかりにめぐりあえたが、次はわからない

この旅では、たくさんの出会いがあった
インドを旅する日本人のバックパッカーや、インドで働く日本人、
日本に18年間住み日本語が堪能なインド人、
会ったその場でレストランの送り迎えをしてくれたノリの良いインド人
日本語も英語も通じないが、笑顔でコミュニケーションした食堂のおじさん
みな私たちに対して親切にしてくれ、貴重な体験談や興味深い話をしてくれた

もちろんガイドブックに載っている美しい世界遺産にも感動する
でもそのような観光スポットは不変だから、何十年か後にまた訪れればいい

しかし「人」は違う。
同じところに行っても必ず新たな出会いがある
それこそがリュックを背負って街を歩く旅の魅力だと実感した

10日ほど滞在したものの、インドという国がどんな国なのか、正直つかめなかった
あと何回でも行って、五感でディープなインドにひたりたい
新たな出会いも、今回出会った人との再会も楽しみだ

もう私はインドのとりこになった

2013.09.24
【文責:マネジメント局2年 宮川扶美子】

平和

僕はこのスタディツアー中、この言葉を何度も聞いた。

 聞いた場面は様々だ。タイ、ネパール、インドとどこでも耳にした。とりわけネパールではたくさんこの言葉を耳にした。

 ネパールにあるチベット難民キャンプでの話を紹介したい。
 ここではチベットを中国からの独立を目指す人々の話を聞いた。チベット人による独立運動への弾圧、弾圧にともなう中国軍によるチベット人の大量虐殺や人権侵害、またチベット人の抗議自殺。特に難民キャンプの入り口付近にあった、焼身自殺した人々の写真は衝撃的なものだった。
 チベットには軍事力もなければ、財力もない。彼らの資金源は中国からの支援金に頼るのみである。それにも関わらず独立を訴えている。僕たちは疑問を隠せなかった。
 「仮に中国から独立して、財政面はどうするつもりなのか」
 彼らはこう答えるのみだった。
 「平和的な解決しか道はない」
 彼らはいつか中国が変わるのを待ち続けるしかないと言った。彼らはいつか中国がチベットを解放し、かつ資金援助を続けてくれるような平和的な日々を、ただひたすら待っているのだ。
 僕は「平和」とは何なのか、と自問した。僕には彼らの言う「平和」は彼らにとって都合のいい決まり文句にしか聞こえなかった。人と人とが助け合い、みんなが幸せになるそれが平和なのか。そんな世界がいつか訪れるのか。また平和というものは存在するのか。

 スタディツアーに行く前までは、人と人とが助け合い、みんなが幸せな世の中が「平和」なのだと思っていた僕ですが、スタディツアーに行って、現実を突きつけられて、見てからは、何が「平和」なのかわからなくなった。「平和」な世の中なんて実現不可能なんじゃないか。

皆さんはみんながみんな幸せなんてあり得ると思いますか。人の幸せは他人の不幸の上に成り立っているというのに。また平和とは何だと思いますか。

2013.09.27
【文責:広報局1年長谷川大貴】

ふれる空間

こんにちは!
ナマステ!

私たちは、2週間にわたる、インド・バングラデシュをめぐる旅をはじめた。
まず、無事に全員が旅を過ごすことができるように万全をつくそうと思う。

————

●インド

デリー、プシュカル、ジャイプル、バラナシ、コルカタ、という5都市を車、鉄道、飛行機を駆使してまわる予定だ。
貧富の差が大きく、多民族、多言語国家で……

と日本で得られる情報は、本から、人からと、情報はたくさん手に入る。
そこから、いろいろな思いを心に持ち、考え、旅に出る。

しかし、実際に旅に出てみるとなかなかイメージとは違うものだ。
また、旅の環境、めぐる場所によっても、見えるものは様々である。

人とふれる、空気にふれる、まちにふれる、食べ物にふれる……
できる限りたくさんのものを感じてきたい。

●バングラデシュ

今回のスタツアは、To2Bagプロジェクト(HP http://to2bag.com/)のメンバーを中心に参加している。今回は日本で売られている様子や、To2Bagを買った人の反応を、作っている工場にフィードバックすることをメインに行う予定だ。また、工場の現状把握も行う。

私にとっては、工場にはじめてなのでとても楽しみにしている。

————-

わたしは、今、とても貴重な時間を過ごしている。

2週間も海外を旅するとなると、この間、他の物事とは遮断される。
時にはわずらわしいと感じる日常が、この時ばかりは消え失せる。

普段、気にも止めないところにも目が付き、
気にも止めないところに考えるようになる。

私はこの環境に感謝したい。

2013.3.10

【文責 マネジメント局 1年 宇治橋広将】

違和感

アウン=サン=スーチーのイメージしかなかった「あの国」。が、私にとって特別な国の一つになった。
2013年3月6日、モヤモヤと隣り合わせの10日間が始まったのだった。

ミャンマーを歩いていると、どの街にいても一日三回はパゴダに出くわす。
「この※パゴダを見なければ、ミャンマーに来たとは言えないんだ」。と、神妙な面持ちで語る人を一体どれだけ見ただろう。なるほど中を覗いてみると、黄金色に輝くパゴダは歴史を感じさせる。

しかし、しばらく中を歩いていると異様な光景に出くわした。仏像やパコダに電飾がなされていたのだ。まるでクリスマスのイルミネーションかのような飾り付け。私は違和感を覚えずにはいられなかった。

違和感はこれだけではなかった。現地でインタビューをしたときに、
「少数民族のことは今はなんの問題もない」。「難民についても、政府はきちんと受け入れ姿勢を示している」。との答えが。彼らの答えは本心から出たものなのだろうか。私が思っていた問題は現地の人にこう捉えられているのか。

しかし考えてみればたしかに、この国の人々は嘘のように優しい。クシャミをしていれば薬をくれるマーケットのおばちゃん。
いきなり近づいてくる怪しげな日本人に食べ物をくれるお母さん。

本当にこの国が問題を抱えているのか。こんなにものどかな地で、暗い部分を浮き彫りにしようと模索する自分に嫌気がさしはじめていた。やはりなにかがおかしい。彼らの言葉に違和感を感じながらも、今、目の前にあるこの国からは充足感を感じている。

そんなことを考えながら夜道を歩いていると、ライトアップされたパゴダが美しく輝いていた。
しかし、わたしはこの国で、一見美しく見えるものの中に感じたこの違和感を大事にしたいと思った。

きっとこのモヤモヤは、私があくまで外部の人間だということが原因だ。現地に行ったことで、その事実をよりはっきりと突きつけられた気がした。外からの報道という形でしか見えない部分もあるのだと改めて気がついた。

それでも、ミャンマーはもはや私にとって得体の知れない国ではない。だからこそ、この旅はまだまだ完結してはいけないのだと思う

2013.3.7

【文責 松坂くるみ】

注)この記事では国名にミャンマーを使用しておりますが、ビルマとする説もあります。

※パゴダ
ミャンマー様式の仏塔のこと。

疑惑の島

みなさんは、地中海の東側に浮かぶ島、キプロス島という島をご存知でしょうか?

この島は、ヨーロッパでも随一のリゾート地として有名で、地中海の美しいビーチを求めて、夏の休暇になると、多くの人々がこの島に訪れます。

しかし、そのような多くの観光客は、島の北側には足を踏み入れることはありません。

キプロス島は、1960年、イギリスの支配下から抜け出し、独立を果たしました。

元々、この島にはトルコ系キプロス人とギリシャ系キプロス人が住んでいました。
1960年の独立後、二つの民族が住む複合民族国家としてキプロス共和国はスタートしました。
民族構成は80%ギリシャ系で20%トルコ系でした。

初めは仲良く二つの民族が共に暮らしていました。
しかし、権益などに関する両系民族の争いが深刻になるにつれ、キプロス島は不安定な情勢になっていきました。
国連平和維持軍が仲介に入るほどになってしまいました。

そして、1974年、ギリシャ系キプロス人の大型テロにより、キプロス島内で大きな紛争が勃発します。
キプロスのギリシャ併合を強く望むテロ組織EOKAが当時のキプロス政府の中道路線に反対し、各地でテロ行為を行いました。

危険にさらされたトルコ系住民はたまったものではありません。
そこで、トルコ系キプロス人の保護という名目で本土トルコがキプロス島に軍を送ります。
そして、トルコ軍がキプロスの北側を占領してしまいました。

その時から、キプロス島は南北に分断されたままです。
北側にトルコ系住民、南側にギリシャ系住民が住んでいます。

今現在、北キプロスは国として独立を果たそうとしています。
しかし、北キプロスは今でもトルコ軍が支配していることになっているので、トルコ以外の国は北キプロスを国として認めることはありません。

一方、南キプロスは正式に国として認められており、EUに加盟しています。
欧州からの観光客は多く、貿易や投資も盛んです。

従って、南キプロスに来た観光客は北を訪れることはほとんどありません。

このことから、北と南の経済格差は広がる一方です。

南はヨーロッパの街並みが広がっている一方、北は活気がなく廃墟が広がっています。
北キプロスは国際的に孤立を深めるばかりです。

そんな中、2004年に両系住民による国民投票が行われました。
それは国連のプランで、キプロス共和国の統合を目指すものでした。

この際、北のトルコ系キプロス人は統合に対し、賛成が多数でした。
しかし、南のギリシャ系キプロス人は反対が多数でした。
よってこの統合案は可決されず、キプロス島は今でも分断されたままです。

南北の経済格差が広がり、国際的に孤立する北キプロスが今後、東アジアの北朝鮮のような脅威になることも考えられます。
人口が70万人で四国の半分ほどの大きさのこの島で、50年間ほど問題が解決されずにいます。

今回の渡航では島で一体何が起きているのか、両者の食い違う意見、平和を望む彼らの声を自分たちで見、聞き映像に残したいと思います。

実際に現地に行き、分断問題を肌で感じ、それを持ち帰り、ドキュメンタリー映画として、日本で上映します。

トルコ系キプロス人、ギリシャ系キプロス人がそれぞれどのような思いを抱いているのか。”今”キプロス島では何が起きているのか。平和構築のあり方とは。

そのような事を今回のスタディツアーで映像に残せたらと思っています。

【文責 渉外局二年 小長谷謙治】

旅する自由

オーストラリア、マレーシア、バングラデシュ、インドネシア、台湾、セルビア、コソボ、マケドニア、アルバニア。
一見すると、無作為に並べられたような国々。
これらの共通項とは一体なんだろう。きっと誰にも分からないはずなので早くも答えを発表しよう。これらはわたしがいままでに訪れた国である。
外国に行きたいと思うとき、わたしが真っ先に懸念するのは金銭問題だ。旅に出るには、お金が必要。航空券も現地での生活費も、すべて自分のお金で払おうとすれば旅行までの何ヶ月間アルバイトを詰め込んで生活しなくてはならない。大学生の長期休みには時間が溢れているから、あとはお金さえあればわたしたちは世界に飛び出せる。これが日本の当たり前。
冒頭でわたしが挙げた国々を覚えているだろうか。思い出してみてほしい。その中にコソボという国がある。わたしがこの夏に赴いた場所だ。先行するイメージは、きっと、紛争だろう。実際に行ってみると、明らかに目に見える紛争の爪痕といえるものはあまりなかったように思える。もちろん、首都を離れて山のほうへ向かえば、紛争で虐殺された人々の墓場があり墓場周辺の一帯は明らかに首都や他のところとは違った雰囲気を帯びていた。しかし、あえてそのようなところに行かない限り、この国で紛争が起こったと感じさせるものには出くわしにくかった。
よく晴れた日のことだった。
“TREAT US FAIRLY”
“WHERE IS MY FREEDOM OF MOVEMENT?”
通りすがりの壁面には、そう落書きされていた。その横にはこう続いていた。
“VISA LIBERALISATION PROCESS FOR KOSOVO”
「コソボにビザの解放を」。コソボがビザに関して何かしらの問題を抱えていることはわかった。この発見の後、コソボの多数派住民であるアルバニア人の大学生との交流会があった。その中の学生の1人が落書きの意味を教えてくれた。
トルコ、アルバニア、モンテネグロ、トルコ。
これらの国に共通することは何か。わかるだろうか。これらの国のみがコソボに住むアルバニア人に許される旅先なのである。この夏、最もショックを受けた瞬間だった。紛争を経て、コソボはコソボ共和国として独立したがその国の存在はまだ国際社会に正式に承認されていない。そのために、このような現状に直面しているのだ。もちろん、虐殺の跡地を訪れたときも、コーディネーターから紛争の歴史を聞いたときも、何度も何度もショッキングな過去や現実を目の当たりにした。でも、わたしはそれらすべてを上回るショックに、その学生の言葉によって直面したのである。それはわたし自身が遠くの日本から来た、まさに「旅する自由」を絶賛満喫中の外国人であったからだろう。お金さえあればどこだって行ける。わたしにとってはそれが当たり前だった。しかしコソボのアルバニア人は、どんなにお金があっても現状では「旅する自由」をあたえられていない。ただ、コソボという国に、アルバニア人として生まれた、というだけで。
世界地図を広げてみる。
アメリカ、インド、メキシコ、モロッコ、ラオス、 ー。
まだまだわたしには行きたい国がたくさんある。きっとわたしはこれからもたくさん旅をする。行ったことのある国が増えれば増えるほど、なんだか世界は小さく感じられる。この感覚は「旅する自由」を与えられた者だけが持てるものなのだろうか。コソボにいるわたしの友達には共感できないものなのか。それはどちらとも言い切れない。ひとつ言えるのは、このコソボ人が「旅する自由」をもたないという現実は、「改善されるべき」問題ではなく「解決されなければならない」問題なのである。
“FREEDOM OF MOVEMENT FOR KOSOVO!”
2015.10.21
【文責:企画局2年 榊汐里】