「当たり前」は当たらない

あなたは騙された経験があるだろうか

例えば目の前にリンゴがあるとしよう。
ある人はそれはナシだ、という。
それは間違いなくリンゴであるが、もし自分がそれをリンゴだと知らなければそれはナシなんだと信じきってしまうだろう。

「隣のクラスの男子がうちのクラスのA君と喧嘩したらしい」
と聞くのと
「隣のクラスの不良がうちのクラスのA君と喧嘩したらしい」

と聞くのでは感じ方がかわってくるだろう。

また何を当たり前なことを、と思っただろうか。
そんな嘘には騙されないし、不良のほうが悪い奴だと思うのは当然だろう、と。

しかしもし自分にリンゴがこういうものだという概念がなかったら?
もし不良と言われている男子が隣のクラスの人にはただのやんちゃな男子の1人だと思われていたとしたら?

リンゴはナシだと思い込まれるだろうし、ただのやんちゃな男子は不良という言葉によって会ったこともない人に一方的に悪者とされてしまうだろう。
自分が思う「当たり前」は大抵間違っている。物事はそもそも多面的で一方向から見れるものではないのだ。

“イスラーム”

と聞いて皆さんはどういったイメージを思い浮かべるだろうか。
中東?危険?暴力的?テロリズム??

あなたは騙されていないと自信を持って言えるだろうか。

ヨルダン、という国は水に恵まれない乾燥した土地だ。
空は雲一つなく清々しいほどの青空で、太陽だけがこちらを睨みつける。
街並みは緑が少なく砂っぽい、荒涼とした印象を受ける。

しかしそんな印象とは裏腹にヨルダンの街は活気に満ちていた。
街を歩けば出店や金製アクセサリー店、オシャレなバー、アラブ風の美しい洋服の店など様々な店が立ち並ぶ。
街はそれらを求めてやってきた人々と彼らを呼び込もうとする人で一日中ごった返していた。
道を歩けば色んな所から声がかかる
「ニーハオ」
「コンニチハ」
「元気デスカ?」

その時、低くて爆音の、でも不快ではないどこか落ち着く旋律が聞こえてきた。イスラム教のお祈りの時間を知らせるアザーンと呼ばれる肉音放送だ。

それにしばらく聞き入っていると、1人のムスリムが話しかけてきた。
「ヨルダンの街を案内してあげるよ!」

その人はモスクの構造を教えてくれ、礼拝用の香水をつけてくれ、知り合いのお店を周りサービスしてもらい、人気のお店など街中を見せてくれた。
さらに私がアラビア語を勉強したいと言うと従兄弟のお店に行き、そこで私が飽きるまで従兄弟と共にアラビア語を教えてくれた。

何故見ず知らずの日本人にここまでしてくれるのだろうか。
彼の答えはこうだ。
「旅人を見ると助けてあげたくなるんだ」

彼に習ったアラビア語で感謝を述べると彼は満足そうに笑い、去って行った。
ふと後ろを振り返ると彼が近くにいた2人組の旅人に話しかけていたのが見えた。

「ヨルダンの街を案内してあげるよ!」

イスラム教の聖典、クルアーンにはこんな啓示がある

“近親者に、当然与えるべきものは与えなさい。また貧者や旅人にも。だが粗末に浪費してはならない”

そういえばトルコの青年もバイトに遅刻している身にも関わらずモスク巡りをしたいという私をモスクに案内してくれた。
旅人に皆が親切なのもイスラムの教えあってこそかもしれない。

イスラム教は危険な宗教だろうか?
私はそうは思わない。
そろそろ帰国して1月が経つ。アザーンが聞こえないのがまだ少し寂しい

ただ気をつけて欲しい。
あなたも私に騙されているのかもしれないのだから。

2013.10.23

【文責:イベント局2年 池田美欧】

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あなたは象を見たことがあるか

象を知らない盲目の人が象と出会ったとき、彼は象をどう捉えるだろうか。

まず彼は象に触れて、象というものを知ろうとするだろう。

どこに触れるのだろう。鼻だろうか。耳だろうか。足だろうか。胴だろうか。

もし彼が牙に触れるのなら、彼はきっと象という動物をこう定義するはずだ。

「ああ、象というのはつるつるすべすべしていて、細長い動物なんだ」

このような無邪気な誤解は、僕らにも一般に起こりうる。例えばあなたは、イスラームと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

平均的な日本人だったらこう答えるはずだ。

テロリスト、と。

僕らが日本に住んでいる限り、地理的にも文化的にも遠く離れたイスラームの人々と直接に接触する機会はほとんどない。
だから、僕らが持ちあわせるイスラームの情報というものは、伝聞に依存せざるをえなくなってしまう。
それはたとえば教科書だったり、報道だったりする。

日本のテレビに彼らが登場するシーンはとても限定されている。彼らが僕らの前に現れるのは、世界のどこかで爆発騒ぎがあったときに、「イスラム系過激派武装勢力による犯行」などという仰々しいフレーズとともに、と決まっている。

だから、僕らはイスラームという文化に恐怖を抱くようになる。ムスリムとの接触を忌避するようになる。彼らの国を訪ねれば、いつか報道でみた邦人誘拐の被害に自分もあうのではないかという危惧。はたまた、テロに巻き込まれるのではないかという恐怖。

これが、僕ら日本人の抱く一般的なイスラーム像なのだと思う。

しかし、実際に彼らの国を訪ねてみると、この認識は事実といささか乖離していることがわかる。

あるヨルダンのムスリムが僕にこういった。

「確かに僕らはアメリカ政府がキライだ。日本政府にもキライなところがある。でも、だからといってアメリカ国民や日本国民までもがキライなわけじゃない。お互い人間なんだ。」

「だから、僕はテロがキライだ。僕らはなにも罪なき市民の死を望んでなんかいないんだ。」

ヨルダンはイスラム国家のなかでももっとも宗教的に穏健な国のひとつで、首都アンマンにはまるでテロとは無縁、いたって平和な日常が流れていた。

僕は、穏健なヨルダンという土地柄も手伝ってだろうが、このような声をなんども耳にした。

そもそも、実際に武力行使をする人々は、ムスリムのなかでも過激と呼ばれる極少数派なのだ、という事実を忘れてはならない。

加えて、どんな武力行使にも背景がある。

僕らがテロと呼ぶその営為の背景には、命を懸けるに値するほどの憤怒が横たわっていることを、僕はパレスチナ人やクルド人の言葉の端々から感じた。

ところで、教科書には「ムスリムは酒を飲まない」とあったけれど、世俗化したトルコの街には酔っぱらいのムスリムが千鳥足で歩いている。

それどころか、教科書やニュースで観るような、赤いスカーフに白装束といった民族衣装を着た人々は、少なくともイスタンブールにはほとんどいない。彼らは僕らと同じような洋服を着て町を歩いている。

彼らは使用する文字までもアルファベットだ。トルコ語は、アラビア語をアルファベットに置き換えるかたちで20世紀初頭に生み出された、世俗化の象徴たる言語なのだ。

僕はびっくりして、思わず彼らに問いかけてしまった。

「え、あなたは本当にムスリムなの?」

彼らは堂々と答える。

「ああ、もちろんムスリムさ。」

こんなイスラームも、世界にはあるのだ。

確かに、教科書も報道も事実を述べてはいるだろう。イスラム教の聖典であるクルアーンの教えによると、確かにムスリムは飲酒を禁止されている。世界各地で、イスラム系武装勢力による武力行使が多発しているのも事実だ。

しかし、これは僕らにとって、象牙の写真を見せられて「これが象です」と言われているようなものである。確かに、象牙は象の一部分であるから、象を語るのに象牙の記述は必要不可欠だろう。だがしかし、これをもって全てとするような解釈は多分に表層的かつ一面的でしかない。実際に象を目の当たりにしてみれば、これがいかに偏狭な理解であったかを痛感することになる。

不幸にして僕らは象牙の写真を見てこれが象なのだと盲目的に信じてしまう。何故なら、世界にはこれが象そのものだと言わんばかりに象牙の写真が溢れているし、なにより、僕らは本物の象を見たことがないから。

イスラームに限らず、もし真剣に世界と向きあおうと思うのならば、僕らはこれ以上、象牙の写真を見つめつづけるわけにはいかないだろう。
そればかりを見ていては、文化的誤解が更に深まってゆくばかりだ。
そしてその誤解は、これまで世界に幾度もの衝突をもたらしてきた。
世界は相互不信に陥って、お互いにお互いを傷つけあってきた。
僕らが象牙の写真を信じ続ける限り、これからもこの不幸は続くだろう。

だから、僕らには象の姿というものを真に知る必要があると思うのだ。
まだまだ理解は足りないだろうけれど、でも、僕が今まで見てきたものは象牙にすぎなかったという認識をもたらしてくれた点で、僕は今回のスタディーツアーに大きな意義を感じた。

そしてこれからも僕らは世界中の象を見るためにこれからも外へ繰り出してゆく。

世界をよりリアルに理解するために。

国際問題啓発団体S.A.L.として、僕らが目の当たりにした象の鼻の長さや体つきの逞しさを、この象牙の写真に溢れる世界に発信してゆくために。

【文責 国際局 高田湧太郎】