作られた平和

僕は今、アフリカ、ルワンダの、とあるバスの中でこの文を書いている。

バスから見える景色は雄大であり美しい。
バスに乗る陽気なルワンダ人と接するうちに、自分の気持ちをどこかに吐き出さずにはいられなかった。

ルワンダで約20年前、歴史上例を見ないジェノサイドが起きたことは、誰もが知るところであろう。つい昨日まで隣人同士であった人々が、当時で言うところの「フツ」「ツチ」という民族の枠組みによって、少数派のツチがフツによって虐殺された。その数は100日間で80万人とも100万人とも言われる。

なぜ僕がこのような回りくどい言い方をするのかと言うと、いまその民族の枠組みは消されたからだ。いや正確に言えば、「隠されている」のである。

ルワンダはジェノサイド後、「アフリカの奇跡」と言われるまでの国になった。治安はアフリカいち良いとされ、経済成長率も極めて高い。
ルワンダがこれほどの成長を遂げた背景には、国家の圧倒的な力がある。現在の大統領であるカガメの強力な指導力のもと、ルワンダは急速な復興と発展を遂げた。
ルワンダ政府の政策には平和構築に関するものがある。国民が民族やジェノサイドに関する話題を公の場で出せば罰せられるし、それらに関する情報はシャットダウンされている。ある意味で「情報統制」ともとれる政策を実行しているわけだ。
そしてこれがかつて存在した民族の枠組みが「隠されている」所以なのである。

僕はこの状況に少なからずの違和感を覚えた。
確かに今のルワンダは一見して平和だ。ジェノサイドからほんの20年しか経っていないとこを感じさせないほど、ただただ平穏な時間がながれ、人々は日常を生きている。
しかしそれは、もしかすれば表面的なものに過ぎないのではないか。この平和は創られたものであって、今尚憎しみは奥深くに燻っているのではないか。ルワンダの人々は自分の感情を隠しながら生きている。決してお互いを許し合い、理解したわけではないのだ。そしてそれはいつ爆発してもおかしくないかもしれない。それを真の平和と呼べるのだろうか。
これが僕の違和感の正体なのだろう。

ふと周りを見回し、考えてみる。
僕の感じた違和感に関係なく、この国では穏やかな時間が流れている。
町では頭に何かを乗せた女性が当然のように歩き、子供は走り回る。
バスの中では、重い荷物を抱えた老婆に若者がすぐさま手を差し伸べる。僕もつられて手を差し伸べた。
手を振ってみる。笑顔と共に手を振り返してくるルワンダの人々。僕が感じた違和感など、とてもちっぽけでなんの意味も成さないのかもしれない。同時にそうとも思った。
過去に幾度とない争いがあったルワンダで、20年の間、大きな争いが起きていないことは事実なのだ。
もし国家が強制的にでもこの状況を生み出さなければ、憎しみの連鎖が起きていたのかもしれない。その平和をルワンダの人々は享受している。たとえそれが創られたものだとしても。
僕は他者に過ぎない。これはどれほど努力しようともどうにもできないことである。他者である僕が、ルワンダの平和について何かを言う権利などどこにもない。

この名前のない、もやもやとした感情に名前をつけるとするならば、それは「怒り」であろう。
創られた平和への違和感と、一方でその平和への納得という相反する2つの感情が生み出す矛盾に対する怒り。
そしてそれをどうすることも出来ない自分への怒り。
この怒りはそう簡単には解決消すことはできない。いや、消そうと思うこと自体が傲慢な考えなのかもしれない。それぐらい、1人の人間など小さなものだ。
ならば、僕はこの怒りを感じることができたことに、誇りを持とうと思う。怒りを感じたということは、僕は真剣にルワンダについて感じ、知り、考えたということだ。それだけで、この地に足を踏み入れた理由としては充分だ。

バスの中は笑顔で溢れている。ラジオの音楽に合わせて歌い、子供はそれらしく泣き、老婆は眠っている。
バスのリズミカルな揺れのせいで、僕も眠くなってきた。
眠りに落ちる前に、もう一度考えてみよう。

【文責:7期 岡勇之介】

広告