違和感

カニャークマリ
インドで唯一、太陽が海から登り、海に沈むのが見れるインドの最南端の小さな町。
カニャークマリの朝は早い。
5時30分あたりから、町中のスピーカーでインドの曲か何かが大音量でなり始める。
その音を聞いてみな海際にくる。
そして日の出を待つ。
日の出とともにサイレンのような音に変わる。
僕はそのカニャークマリの岬の先で、大きな岩に座りながら青白い色から赤色に染まる空と真っ赤な太陽を見る。
なぜか心の底から『よし、やるか。』という思いが湧いて来た。
何をやるかは全くわからない。ただそんな気持ちが湧いて来たのだ。

バラナシ
インドの東の方にある内陸の街でインドの最も有名な観光地の一つ。
僕はそこでも日の出を見た。
茶色く濁ったガンジス川のほとりで沐浴をする人々と真っ赤な朝日。

バラナシには、日本語を流暢に話す人々が多くいる。彼らはとても優しくしてくれる。
だが結局最後は自分の店に連れて行き、僕たちはそこで何か買わさせられる。
彼らにも生活があるからしょうがないが、やはり少しショックを受ける。
結局は商売のための優しさなのだと。
またバラナシの町を歩けば、物売り達がつきまとってきて、必死に値段交渉をしてくる。
そんなバラナシで、日の出を見終わった後、友人たちのバックの荷物番をしながらガンジス川のほとりでぼーっとしていた。
するとまた日本語を流暢に話すインド人が来た。
1日前に僕がブレスレットを買ったお店の人だった。
彼は隣に座り、色々と話し始めた。
バラナシには数日しか滞在しないと伝えると、説教のようなものが始まった。
『それではバラナシに来た意味がない。
バラナシでゆっくりしてくことで、気づくことが多くある。
まず生きる事について。
人生で一番難しいこと、それは生きることだ。生きる上で悲しいことや、嬉しいことなど様々なことが起こる。
インドの人々は、日の出とともに1日を始める。
雨が降れば仕事はしない。
みんな好きなように生きている。
インドはそんな国だ。』
僕は、すごくいい事を言われたと思った。しかし、バラナシで日の出を見たが、彼が言う1日の始まりの感覚は僕にはわからなかった。

カニャークマリ
そこは、観光地化がそこまで徹底されてない。
栄えている所に行っても、物売りは交渉が下手で、レストランの定員も英語が喋れず、タクシーも値切ることが難しい町だ。
そんなカニャークマリの民家の方に行った。
そこでは英語がほとんど通じない。
カラフルな家が海際に立ち並び、船の近くで漁師たちが、網を整理している。
その通りにはたくさんの子供たちがいた。
彼らは、PhotoPhotoと連呼し、自分たちの写真を撮られては、その写真を確認し満面の笑みで満足する。
大人も写真を取ってくれとジェスチャーで言ってきて、自分の写真を見ると笑顔になる。
みな無理に話しかけてこず、物売りもいない。
落ち着いた雰囲気の場所だ。
what is your name? や where are you from? などの簡単な英語をみな話しかけてくる。
おそらくそれらしかわからないのだろう。
japanだと言っても通じない。
彼らは英語っぽい単語を連呼するだけである。
ヒンドゥー語で必死に話しかけてくるおじいさんもいる。
全くわからない。
僕と彼らには大きな壁があると感じた。
言葉の壁だ。
この大きな壁のせいで、僕は彼らとコミュニケーションをとるのが難しい。
しかしこの壁が僕にはとても心地よかった。
今いるのは日本ではなくインドである。言葉が通じる方がおかしい。
僕はこうあるべきなのではと思った。

バラナシで感じた違和感。
日本語を流暢に話す人々。
観光地化したインド。
火葬場を案内してお金を稼ぐ者。
プジャーというヒンドゥー教の神聖な儀式に次々と差し込むシャッターの光の数々。
自分達の物を売ることに全力で取り組んでいる物売り。
優しさでガイドをしてくれたと思ったら、最終的にお金を要求する勝手な人。
たくさんの人に出会った。
たくさんの場所に行った。
そこには確かに文化はあった。
ただそれがインド本来の姿なのか僕にはわからない。

一方、カニャークマリにはその違和感がない。
僕はやっとインド人に会った気がした。
彼らと話すことは難しい。
ただ、一緒にクリケットをしたり、駆けっこをしたり、写真を撮ったり、じゃれあったり、ジェスチャーで何かを伝えたり。
僕にはそれだけで十分だった。
インドに触れてる気がした。

観光地化することが悪いとは思わない。見るべき文化がそこにはあり、僕たちはそこに行くべきだと思う。
そして人が集まる場所で商売を始めるのは自然だ。
また日本語を喋ってくれる人がいるなんて本当にありがたいことだ。

ただ、僕の感じた違和感は明らかに、最近出始めたものであろう。
昔の純粋な頃のバラナシを見たかったと思った。
しかしそれは叶わないだろう。
インドはさらに観光地化していくと思う。
いずれはカニャークマリも…

カニャークマリの空が真っ赤に染まり太陽が海に沈もうとする日の入りを見ながら思う。
今日も生きた、と。
カニャークマリでは時間を感じた。
日の出とともに時間は始まり、日の入りとともに時間は終わる。

バラナシで日の出を見た時は写真を撮ったり、沐浴している人を見たり、観光という面が大き過ぎた。

落ち着いた雰囲気の中、岬の先で大きな岩に座りながら見るカニャークマリの日の出は僕に写真を撮るのも忘れさせた。
その瞬間を大事にしたいと心の底から思った。
そして思う。
よし、今日も生きるか。

バラナシのおっちゃんが言っていた言葉が頭をよぎる。

観光地、そこには見るべきものがあり、訪れるべきである。
だが、観光地としての役割が大きくなるにつれて、崩れるものがあると感じた。
それが僕には違和感として感じられたのだと思う。

【文責:7期 松永悠】

 

日の出 カニャークマリ

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表裏

夜のミッキーマウスは昼間より難解だ。谷川俊太郎の詩の一文である。ミッキーマウスというネズミは世界のアイドルとしてあらゆる液晶に登場し、人々を熱狂させてきた。ただミッキーマウスも人々には昼間の顔しか見せない。アイドルとしての仕事を終えた彼はいったい何をしているのだろうか。普通のネズミのように薄汚い排水溝を夜な夜な駆け回っているのかもしれない。人はだれでも裏と表がある。世界は本音と建前でできているのだ。

今、日中関係は冷え切っている。秘密保護法による日本の右傾化、やまない反日デモ。問題は山積している。ところが、僕が実際に中国に来て反日の実態に疑問が生まれた。話しかける人は皆、中国語の会話もままならない外国人に優しく答えてくれる。自分が日本人(リーベンレン)であることを伝えると、何を言っているのかは分からずとも嬉しそうな感じが肌に伝わる。私たちはナショナリズムという言葉の絶対的な正義感に踊らされてきたのではないか。

ただ中国は複雑な国だ。共産党一党による社会主義を歌いつつ、資本主義を取り入れ発展している。漢民族と少数民族が対立し共生している。たかだか二十日の旅で中国を知るには難しすぎた。たしかに表向きは日本人に対して優しい。しかしこれが本音なのか建前なのかすらわからない。少し話をして優しかったからいわゆる反日は嘘だと断定することはあまりに短絡的すぎる。日中の関係は想像を超えて深い。両国は近すぎて遠いのだ。中国人にリーベンレンと言われた時のあの期待と恐怖には、言葉にできない独特なものがある。お互いがお互いを「パンドラの箱」扱いして深く立ち入らなければ何も改善しない。

この旅で北京大学の学生とお話する機会があった。その時ある女子大生が日中関係についてこう言っていた。「お互いが知られるのを待っていてはいけない。相手を知ろうとしなければならない。」その言葉が心に刺さる。私たちはどうも自らの主張に絶対的な自信があるように思える。世界はトレードオフだ。靖国問題、尖閣諸島、戦争責任、何かを改善しようとすれば何かに悪影響が及ぶ。自分の主張だけでなくむしろ相手の主張を理解しなければ自分の意見は伝わらない。中国の表面をなぞって騒ぐのはやめにして、中国の昼の顔も夜の顔も探っていきたい。いつの日か、あの強い語調も焼き付けるような赤色も違う角度で捉えられることを願いながら。

【文責 射場一晃】

平等

インドに滞在してちょうど一週間。
ムンバイという都市にある、
海上モスクを訪れた。

休日ということもあって、
道は観光客と礼拝をしに来た人々で
ごった返していた。
賑わうその道の脇には、
数えきれないほどの物乞いの姿があった。

手がない人。足がない人。
生きているのかさえも
わからない子供を抱く母親。
五体満足の人を探すのが難しいほどだった。

直視することはできなかった。
お金をあげることもしなかった。

ふと、お昼ご飯のことを思い出す。
100円程度でご飯が食べられる世界で
3000円近くもするカレーだ。
物価が違うからこそできる贅沢。
日本でそのような食事をすれば、
数万円は下らないだろう。

物乞いは必死で
1ルピーコインを握りしめる。
私はその1ルピーが
気にもならないような
値段のカレーを食べた。

物乞いは仕事だ。
お金を稼いで生活している。
物乞いは望まない世襲だ。
親と同じ道を子も辿る。

物乞いは果たして悪なのか?
私と何が違うのだろうか?
存在は知っていた。
自分なりの向き合い方も
心の中で決めていた。
それでも何が正しいのかさえ
わからないでいる。
直視できなかった光景が
さらに私を葛藤させた。

高級カレーを食べて過ごすインド人がいる。
その一方で、
他人に手を差し出して生活する人々がいる。
理解していたはずの現実も、
目の前にあると息苦しかった。

コインの価値は皆同じ。
誰に対しても平等だ。
それ以上でもそれ以下でもない。

同じ価値のはずなのに、
コインの重さはあまりにも違う気がした。
自分にこの重みが
わかるものなのだろうか。

モスクへ続く一本の道と
歩みを止めない人の列。
モスクは神に祈りを捧げる人々で溢れ返る。
路肩に留まる人々には目もくれない。
結局自分もその一人でいる。

取り残された人々には、
祈ることさえも許されないように見えた。

神よこれは平等なのですか。

【文責 守屋和穂】